祟りの罰則は予測可能であるが、その予測には相当な困難が伴うこと。

警察が来るなら、罰則が簡単に読めるから、強い人はその範囲で好きにやれる。「テープレコーダーで録音しています」
だけなら、それを警察に提出されるのか、マスコミに持っていかれるのか、想像するしかない。

想像を刺激する「祟り」は、怖い**。

祟りの価値というのは、祟りのルールそれ自体にあるのではなく、
それから想起される「もの」の大きさにある。
強い人、背負っているものが大きな人ほど、同じ文章から想起するものの大きさは大きくなる。

いい祟りはその人の強さを移す鏡となる。弱い人は、祟りが「弱い」と予測する。強い人は、実際以上に
祟りの罰則を恐れてしまう。

##複雑さのもたらす平等なコミュニケーション
見えない「祟りルール」に支配された会話というのは、複雑性が非常に高い。

会話はもはや、単純な情報交換ではなくなる。言外の会話、非言語コミュニケーション、
無言の持つ意味など、様々な要素が同時進行的にやりとりされる。

お互いに気を使って、「祟り」というものを意識しながらコミュニケーションを行ったとき、
もともと持っている「弱さ」「強さ」は意味を失い、**全ての人は「祟り」の下に平等になる**。

もともと、人は誰でも平等だ。

>私が思っているのは、実は人間そのものに強弱はないのではないか、といこと。
>違うのは、「力」の有無と強弱。
>「なんだ、力があるのが強者で、力がないものが弱者じゃん」というなかれ。「強者」「弱者」という場合、
それは「埋め込まれた」属性だけど、「力があるない」というのは、「後づけされた」属性。
そう。力はすべからく後付けなのだ。
「金持ち」「貧乏」というのもそうだし、「知者」「愚者」というのもそう。それはあなたそのものではなく、
あなたの持ち物にすぎない。また、持ち物にすぎない以上、失うこともあるけど手に入れることもできる。
私が「弱者」という言葉を思考停止だと思う理由がそれ。
>[404 Blog Not Found:弱いんじゃない、力がないだけだ](http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50497686.html)

祟りというルールは、もともと平等だった人同士が共有していた「平等な世界」のありようを、
もう一度見せてくれるものだ。

神話の時代、誰もが「祟り」という共通の「なにか」を見ていた。
共有するものがあったから、何もいわなくても相手を気遣い、法律が無くても社会はできた。

ザシキワラシの伝説は、祟りルールの大切さを伝承している。

>誰にも見えない、いないはずのものを「いるもの」として扱っている家は栄える。
誰もがサシキワラシを大切に扱う。
>それが出ていった家、祟りに「見捨てられた」家は複雑さを失い、没落する。

科学が進んで、祟りが世の中から無くなったときに失われたものというのは、
たぶんこうした「**誰もがほんとは平等だった**」という社会の記憶みたいな
ものだったんじゃないかと思う。

平和な救急外来がしたい…。

もとネタにさせてもらったサイトはこちら。
[3ToheiLog: いつ撃たれるか不明という圧力のゲーム](http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000414.html)