「意識」は、抽象化を通じて一覧性に優れ、思考をもたらすが、情報の欠落を伴う

神様を選ぶか意識をとるかという問題は、単なるシェル選択の問題にしかすぎない。

映画「レインマン」のモデルとなった自閉症患者、キム・ピーク氏は、驚くべき記憶力を持つ。

彼は、普通の人間の20倍近いスピードで本を読み、今までに読んだ本の内容の
ほとんどを記憶している。

記憶の想起は、あらゆる刺激から引き起こされる。言葉を用いた質問に答えるのは
もちろん、たとえば音楽の一節を聞いた瞬間にもその音程から複数の記憶事項が
想起され、普通の人からは想像もできないものまでも一瞬で思い出す。

神様の囁きだ。

その代わり、普段の日常生活は、全介助。思い出すことはできても、
それに何の意味があるのか、そこまではほとんど分からないらしい。

##神を殺した私の意識
人が出現してから数万年もの間、神様は常に頭の中に実在したから、
人間の社会には王も権力者も出現しなかった。

たとえば縄文時代の日本の集落には、まるで都市のように発達したものがみられるけれど、
そこには王は存在しない。

ところが、人の心に意識が出現して、「神の囁き」を邪魔するようになってから、
神様の声はだんだんと聞こえなくなった。

同じ頃、人間の中に「自分が王である」と称する人々が出現しはじめ、
人の中に階級ができ、国家ができた。

かつて人は、王のいない大集落を作っても、神様の声に従ってさえいれば、
その集落を平和に維持することができた。

人々の頭の中に意識が芽生えて、脳の中に神様の居場所が失われたとき、
神話の時代は終わった。

もはや共感覚の見せる美しい世界を皆が見ることはない。
権力をめぐって人々が争う、醜い現代社会のはじまりだ。

##言葉を乱した神
バベルの塔の逸話では、いい気になった人々を諌めるために、神様が
塔内の人々の言葉を乱し、お互いにコミュニケーションを取れないようにして、
最終的に塔を破壊してしまう。

「言葉が乱れた」現象というのは、言葉を「感覚」していればよかった
神々の時代から、それを「認識」しなくてはならなくなった**意識の時代**への、
過渡期の出来事だった。

神々が囁いていた根源の言葉というのは、外界を感覚した情報そのもの。

視覚や触覚、味覚といった感覚は統合されて、そのまま「神の言葉」として感覚されていたから、
同じものを感覚していれば、神の囁く言葉は皆共通だった。

神が囁くことのなくなった世界では、感覚された情報を、意識が処理しなくては
認識できない。

意識というアプリケーションが処理できる情報量は、悲しいぐらいに少ないから、
辺縁系を上がってきた情報は、必然的に抽象化され、情報の取捨選択が行われる。

抽象化の工程がばらばらだと、お互いコミュニケーションを取るのが不可能になるから、
民族単位、国単位でその工程を約束して決めておく。

こうして、言葉は「形」を持った。

言葉は内的に感覚されるものから、お互い取り決めた「形」に従って認識されるものへと変貌した。

##言葉が「形」を得て失ったもの
言葉の処理方法を取り決めることで、言葉は学習可能なものとなり、
意識が支配する社会においての情報伝達の手段となった。

現在の人間社会で使われる言語というのは、記号によるコミュニケーション体系で
あるという点で、独特のものだ。

人間以外の全ての動物は、記号を用いないコミュニケーションを行う。

鳴き声などのシグナルや、身体の色や臭い、複雑なダンスや、様々な行動というのは、
全てがコミュニケーションの手段となる。

神代の人間もまた、言葉に加えて、こうしたシグナルを、
「神様の言葉」として統合的に感覚することができた。

意識には、そんな芸当はできない。

こうした「形を持たない言語」の特徴というのは、
そのシグナルを出すのに要するエネルギーが、
そのままそのシグナルの信憑性を保証してくれるという点だ。

あらゆる動物は、シグナルを出すときに命の危険を冒す。派手な鳴き声は敵を誘うし、
孔雀の大きな羽というのは雌を誘惑するけれど、普段の動作を鈍くする。

強力なシグナルを出す動物というのは、常にそれに引き換えるハンディキャップを負う。
「ハンデを負える」というそのことが、形を持たない言葉の信憑性を保証する。

人の頭に意識が出現する前。頭の中で神様が囁く言葉というものもまた、
あらゆる感覚入力を統合した音声として出現する、形を持たない言葉だった。

意識が神様を追い出して、言葉に形を与えたとき、
言葉は単なる記号となり、人の言葉からは**信憑性**という大切な要素が失われた。

社会でおきているあらゆる事件は、つまるところ「他人の言葉を信用するかどうか」が全ての
発端になっている。詐欺や殺人、戦争に至るまで。ことのおこりはすべて「信用」の問題。

コミュニケーションをいくら重ねたところで、ゼロはゼロにしかならない。
記号には信憑性を保証する機能がないから、「話せば分かった」のは神代までのこと。

その人の言葉が信用できるのかどうか。人間は言葉だけからは判断できない。
バベルの塔の災いというのは、人々の間に不信をもたらした。呪いは今でも続いてる。

>私はただの銃剣でいい 神罰という名の銃剣でいい
>私は生まれながらに嵐なら良かった 脅威ならば良かった 一つの炸薬なら良かった
>心無く涙も無い ただの恐ろしい暴風なら良かった

ロンドンで悪魔と対峙したローマの神父、アレクサンド・アンデルセンは、
聖遺物の力で自分の心を失う前に、こう語った。

意識が支配する世界では、聖職者ですらもはや神様の言葉を聞くことはない。
神の声を再び聞けるなら、心なんていらない。そう考える人がいたっておかしくない。

その人の立場や属性、社会的な地位や収入なんていうものにしか信憑性を求められない社会、
それらを鵜呑みにして過剰な期待をかけては、「裏切られた」とまた傷つき騒ぐ現在というのは、
人々に心なんてなかった神々の時代と比べて、どれだけ幸福なんだろうか?

意識の時代。他人を信じ、他人に信じてもらうという行為は、なんだか本当に難しい。