Fri, Apr 02

  • 13:39  1人の力で立ち上げから新人育成、組織編成まで全部できる人、要するにお願い丸投げで、あとは勝手にお金を作ってくれる人というのはどこの業界でも求められるんだろうけれど、問題なのはどこにもお金が無くて、そういう人を呼ぼうにも、能力に見合ったペイがでない
  • 18:41  一見いいかげんだけれど、高性能低コストで動いている何かを、ちゃんと作り直そうなんて考えると、たいてい高コストで性能の悪い、劣化コピーが出来上がってしまう
  • 18:42  乗用車の「かち割りコンロッド」みたいな方向、今まで「ちゃんと」作っていたものを、同じ機能でもっといいかげんに作ろう、なんて方向で物事を再発明すると、いいものが作れそうな気がする
  • 18:43  一見上手くいっているもので、たぶん真っ先に目につくのはいいかげんに作っている場所、「俺ならもっとちゃんとやるのに」みたいなところなんだけれど、そこに手をつけるのは、やりかたとして悪手なんだと思う。むしろちゃんとやっているところを、もっといいかげんに行けないのかを考えたほうが
  • 18:44  これ以上不真面目にしようがないもの、これ以上いいかげんにやりようがないものというのは、たぶんプロダクトとしてほとんど正解に近いところに到達しているのだろうと思う。ダクトテープとか。あれだって軍用のハイテク製品だった。風呂敷なんかもそう
  • 18:46  もっとちゃんとやる、もっと厳密にやる、という方向は、それを守りきれなくなる人の数が増える。結果として、それを唱えた人の名声は高まるけれど、それについて行けないユーザーが増えていく。もっといいかげんなやりかたというのは、今度は提案が難しい
  • 18:47  委員会方式で作られたものがことごとく失敗してしまうのは、やっぱりこのへんが原因というか、問題解決に政治成分が増えることで、「ちゃんと」の圧力が高まってしまうからなんだろう
  • 18:48  10人10チームでコンテスト形式でものを作ると、敗者の努力が無になった、という前提で、90人分の努力が無駄に終わる。でもたぶん、100人1チームで同じ目標目指すと、そびえ立つクソができてしまう
  • 18:50  コンテスト形式の、90人分の無駄というものを、そもそも無駄と考えてはいけないのだと思う。90人の努力というのは、言わばメートル原器の製作のようなもので、敗者がいて、アイデアの多様性が生まれて、はじめて勝者の勝利条件が確定するような
  • 18:51  ものさしがなければ、すごさとか、性能とか、比較もできないし、目標も見えない。100人で一つを作るやりかたは、恐らくはものさしの不在というものが問題になって、これはたぶん、人数配分を間違えてるような気がする
  • 18:53  インターネットのインターネットらしさというのは、双方向にあるんじゃなくて、選択が多様であることと、ユーザー自らが探さないと行けないことのほうが、「らしさ」により近いんじゃないかと思う
  • 18:54  テレビがテレビらしいのは、あれが12ちゃんねるしかないからで、ユーザーは、同じものを同じように見る。選択といっても12しかないから、結局全部見る
  • 18:55  ちゃんねるの数が12から100に、10000にと増えて行くにつれて、たぶん全く見られない番組というものも出てくるし、ユーザーの数と、ちゃんねるの数とがどんどん近づいて行くにつれて、見られて当たり前、もっと面白くすればよりたくさん見る状況が、限られたアテンションの奪いあいになる
  • 18:56  ユーザーの側も、12だったら認知は余裕だけれど、チャンネルが10万もあったら、どこに何があるのか、調べないと分からない。これはもう、インターネットと同じ状況
  • 19:01  @santohei鳥人間コンテストとルマン24時間を見るときには正座」が我が家のローカルルールでした。。  [in reply to santohei]
  • 19:03  @treyfla 「結局最後は人の手」とかいうと、なんかかっこいいですもんね。。  [in reply to treyfla]
  • 20:07  白い巨塔は、財前にしても里見にしてもきちんと人であって、財前は脇の甘い小心者だし、里見の善というものも善人の暑苦しさだとか、この人とお酒飲んだらつまらなそうだな感とかよく描けてて、むしろ2人とも大好きだったんだけれど、そうでもないんだろうか。。
  • 20:08  白い巨塔か、続編だったか、どちらかのあとがきに、本来は財前大勝利で終わるはずの物語が、読者の圧力すごくて、結局あくが滅びる話にするために、筋をずいぶん変えざるを得なかったとか、そんなことが書かれてた
  • 20:09  あの物語は悪い人といい人の物語というよりも、手を動かすけれど心の弱い人と、泥沼にあって口は出すけれど手を出そうとしない人との物語として、すごく良くできていると思ったんだけれど
  • 20:10  @Anklang そのへんはもしかしたら、里見に肩入れして読む人と、財前側に肩入れして読む人とで、見えかたが全然違ってくるのかも。。  [in reply to Anklang]
  • 20:12  @treyfla なんというか、光を当てる方向が変わると、それが立体に見えたり、あるいは平面に見えたりするんじゃないのかなと。。。  [in reply to treyfla]
  • 20:33  @Anklang 正続合わせると、まあ帳尻あっててああいうものなのかなと思いますよね。。。帳尻合わせやると、どうしても財前の側は馬鹿っぽくなっちゃうのがなんなのですが。。  [in reply to Anklang]
  • 20:34  @treyfla でも山崎豊子で面白いというか、肩入れしたのは白い巨塔だけだから、あれは単に、自分がそう思い入れしてるだけなのかも  [in reply to treyfla]
  • 20:41  @treyfla 自己啓発系の本をたくさん書いているあの人たちの、案外源流なのかもですね。。  [in reply to treyfla]
  • 20:43  @Anklang あれは何というか、里見は扇動するばっかりで手を汚さないように振る舞いつつ、財前に止めさせたのに、状況がもっと悪くなるのを座視してた、という見かたをすると、本当に黒いのどっちだよ、と思うのです。。財前頑張ったのに  [in reply to Anklang]
  • 20:46  考えてみれば子供の頃は、野良で拾ったファンタの瓶とか酒屋さんに持っていくと、10円とかくれた。ああいうのボランティアとかじゃなくて、そういえば普通に、お小遣い稼ぎとしてみんなやってた。あれが小銭稼ぎじゃなくて、学習とか行事になったのはいつからなんだろう
  • 20:47  学校の先生から「ゴミを拾いましょう」じゃなくて、たしか子供同士の横のつながりで、「ファンタは金になる」だの、「一升瓶は高い」だの、教わった気がする。たいした金額じゃなかったけれど、あの頃は20円でのしいかとか買えたから
  • 20:49  ああいうのだって瓶に何が入ってるか分からないし、手を切ったら怪我するだろうし、瓶割れたら危ないだろうから、安全文脈で禁止されたんだろうか。。そういえば小学校高学年の頃は、もう瓶拾った記憶無い
  • 20:53  @Matthew238 学校の行事として、家回って瓶もらってお金作ったことは、たしかにあったのです。でもそうでないときも、そういえば日曜日とか、近所の友達と一緒に瓶拾いしてお菓子屋さんいったりしてたな、と。。  [in reply to Matthew238]
  • 20:54  @sub_candle 肩入れしやすいキャラクターが、あの小説世界には、けっこうそろってましたよね  [in reply to sub_candle]
  • 20:56  @KoujiMatsumoto なんというか、そういえば子供がお金を稼ぐやりかたというのは、昔はちゃんとあったのに、今不思議と無くなっちゃっいましたよね。。「お金ほしければ一生懸命勉強して18年待ちなさい」は、教えかたとしてあんまり良くないような  [in reply to KoujiMatsumoto]

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