Wed, Sep 22
- 01:56 観客にも台本みたいなものがあるんだと思う。読めないし、文字にもなっていないんだけれど、台本が伝わって、それを演じることで、満足につながるような。台本が見えなかったり、台本を演じているようで、はしごを外されてしまったりすると、台無しになる
- 01:57 コンサートでヲタ芸やってる人たちなんかは、それをあとから見ている誰かに笑われるのを折り込んで、でもそれは、笑いをとっているのであって、笑いものになっているのではないんだと思う
- 01:58 笑われても、笑いをとりにいっているのならば、それは成功になる。笑いものになってしまったなら、惨めになる。分かりやすい台本が用意されていて、それを演じきれていたのならば、笑われることそれ自体は、芸を演じる人にとって、気持ちよさの妨げにはならない
- 02:00 台本を演じるためにそうした舞台に出向いて、そこで台本の流れが途切れたり、はしごを外されてしまったりすると、笑いを取りに行った人たちは、笑いものに転じてしまう。これは本意でないし、恐らくは笑われることは、不快に直結する
- 02:01 分かりやすく驚かせないと、その驚きは、単なる不快とか、裏切り、という感覚にしかならないのだと思う。驚きを入れるならば、だから最初から「驚きがあります」ということ、驚きの方向とか、大きさみたいなものを、あらかじめ「観客の台本」に折り込んでおかないと、大失敗する
- 02:02 こういうのはたぶん、人をたくさん集めるような会場を運営するときもそうだし、自分たちの病状説明みたいな、もっと個人的なものについても、聞く側の台本みたいなものを意識しないといけない気がする
- 02:03 自分たち話す側が、あらかじめどんなことをしゃべるのか、ある程度準備しておくことは当然にしても、それが聞く側にとって、どこか台本の流れを阻害するものであったり、はしごを外された、なんて感覚を招いてしまうと、せっかくの面談が、むしろ状況を悪くする
- 02:07 @chikumaya 「聞く人のことを考える」というのは大事ですよね。。 [in reply to chikumaya]
- 02:13 @chikumaya ジョブスのあれなんかも、こう、「わー」っと盛り上がるべき場所とが明示的で、観客が一緒に盛り上がるところまで含めて、一つのプレゼンテーションになってる気がするのです。。 [in reply to chikumaya]
- 02:15 台本というものが、演じる側だけで完結するものであるという考えかたは良くないんだと思う。観客に相当する人たちに、あらかじめ「役割」みたいなものを当て込んで、それを明示的に演じてみせるのが正しい
- 02:16 観客の側への台本の伝達が上手くいっていれば、大盛り上がりの大合唱になるし、伝達がない状況で、舞台の人が、観客席にマイクを向けたところで、白々しい沈黙が返されてしまう。
- 02:18 ひな壇芸人の人たちは、恐らくは良い観客というか、司会者が潜在的に「こうしてほしい」というのを読む名人が生き残るんだと思う。裏を返すとニュースの解説番組なんかで、驚き役のあの人たちを生かせない解説者は、やっぱり解説はできても司会はできない
- 02:19 病状説明するときには、どうしても自分たちの側が「教える」役割になるのだけれど、面談の後半で、教える側と、教わる側との立場を入れ替えることができたのならば、その面談は大成功なんだと思う。
- 02:20 立場の入れ替えはその代わり、慎重にやらないと台本の断絶が発生するし、そうなると今度は、「この主治医大丈夫?」みたいな不信が生まれてしまう気がする
- 02:22 ザ・ロックとハルクホーガンの一騎打ちのときには、両雄があまりにもスーパースター過ぎて、観客が応援する側を一方に決められなくて、ロックが人民肘を出すまでに、えらく苦労していた。あのとき2人は、お互い戦っているようでいて、実際には観客と戦ってた。
- 02:37 こう、流れとしてここは誰かが火中の栗を拾いに行かなきゃいけない場面というのはどんな組織にもあって、そういうときにリスクをとってくれる人を、まわりは「さすが○○さん」とか、「こういうときには○○さんしかいません」とか持ち上げる
- 02:38 リスクをとることで、それがなにがしかの報酬であると感じる人と、誰かを誉めることで、結果としてそれがリスク回避になっている人とが同じ組織にいると、役割分担が生まれて、危ない橋を渡る人は、もっと危ない橋を渡ってみせるはめになる。そういうことが起きたんだろうとは思う
- 15:37 http://bit.ly/9qijoG 鈴木宗男日記。 9月21日付の、陳述書の記述が興味深い。調書を取る相手に、あらかじめ役割を割り当てているくだりとか。役割を引き受けたときのメリットと、「さもないと」という恫喝部分とか
- 15:40 結局こういうのは、「分からないことには、臆測しないで分からないと言う」るーるを、調書を取られる側が徹底するだけで、調べる側は、自分たちの物語をそこに当てはめるのが、恐ろしく面倒になるような気がする
- 15:41 知っていること、記憶にないことを明確に分けて、正しく知っていることだけを証拠にすると、恐らくは穴だらけに見えてしまうのだと思う。で、事実を裁定する人が、「穴だらけ」と「証拠が弱い」とをイコールに取る文化があると、無理にでも穴を埋めないと、という動機が生まれる
- 15:42 「我々の台本を受け入れないと、今度はお前が悪役として報道されることになるぞ」というのは、脅し文句として相当に強力な気がする。検察は、指示するのでなく、見解を表明するだけで、実際それが、事実であるかのように報道されるのは間違いないのだろうし
- 15:44 このへんはあるいは、取り調べを受ける立場になった人が、自らの見解を、Web を通じて積極的に出していくのならば、あるいは事態は少しだけ変わるのかもだけれど、大多数の人は恐らく、「放っておいてもらう」ことが一番望むことだろうから、
- 15:48 失敗した自分を想像して、その時の生活が、どれだけリアルに描けるのか、という部分が、チャレンジを志向する文化と、お手つき即死の文化とを隔ててる気がする
- 15:49 日本の生活保護が、あれだけ手厚いだの、豪勢だのいわれている一方で、じゃあ自分が何かを失敗して、生活保護で暮らしている自分を想像できるかといえば、ほとんどの人はあきらめてしまうような気がする。その絵図を信頼していないというか
- 15:50 米国の貧困生活というと、テレビだとフードスタンプにトレーラーハウス、というのが定番に見えるのだけれど、あの生活のリアルさというか、絵図に対する信頼というのは、米国の人はどうなんだろう。それが強いから、落ちてもそこまでという、逆説的な安心感が挑戦を生むことはないもんなんだろうか?
- 15:51 無線で呼べばやって来るシャーマン戦車と、無敵らしいけれど実物を見たことがないタイガー戦車と、歩兵をやっている人は、じゃあどっちの戦車を持っている軍隊で戦いたいかと思えば、やっぱり呼べば来る戦車と戦いたいんじゃないかと思う
- 15:53 そういう意味でこう、きれいな都市をもっときれいにすることよりも、「いくらか上等なスラム」を作ってみせることのほうが、そこに住んでいる人たちを、結果として元気にすることにつながるような気がする
- 16:04 「泳ぐためにはまず溺れかたから」の論理で行くなら、それこそ就職活動を目前に控えた学生さんを教える人たちは、まずは「正しい生活保護の申請のやりかた」から教えたほうがいいんじゃないかと思う
- 16:06 ああいうのにだって手続きみたいなのがあって、ただ「生活できません」だと却下だけれど、書類そろえて、戸籍切って、「職を探す努力にもかかわらず職が見つからない」ことを日記に付けて、それを「証拠」として持参するとか、典型的なやりかたというのがあって
- 16:07 そういうのは本買えば書いてあるし、わざわざ教えるもんでもないのかもだけれど、裏を返せば「これを読んでおきなさい」なんて、教える側が「これ」と思う本を勧めるだけでも、最悪を想定した安心感みたいなのは、ずいぶん得られるんじゃないかと思う
- 16:09 自分たちの業界だと、「訴えられたとして、じゃあどうすればいいのか」というのを、実質習わない。漠然と、弁護士に相談するとか、裁判になるとかその程度で、じゃあ弁護士はどこにいるのか、裁判では何をすればいいのか、もう想像できない
- 16:10 そういう「最悪」を想像できないことが、最悪の状況に対する恐怖をますます高めて、結果として、リスクというものを、想定されている以上に大きく見積もってしまう、という側面が出てくるような気がする
- 16:11 「努力すれば成功する」みたいな価値観も、じゃあ努力しなかったら、人間どうなるのか、努力しなかったとして、努力しない状況で、じゃあどう生きていけばいいのか、習わない。習わないと、努力を後押しするのが恐怖になって、効率はいいのかもだけれど、何か違う
- 16:13 「チャレンジしようよ」という空気を作るときには、それが成功したときの飴を増やすことよりも、まずはそれに失敗したときにどうなるのか、「怪我はするけれど死なないよ」というビジョンを示さないと、誰もチャレンジしようなんて思わない
- 16:14 それは救急みたいなところも、ハイリスクの科もそうだけれど、そういう場所の条件をいくら良くしても、今そこで頑張っている人はうれしいけれど、投入したお金の割に、人は増えないような気もする。
- 16:15 これがいっそ、たとえば救急なら、救急外来でのトラブルは全部国家案件、トラブルおこした救急医は無条件でクビだけれど、責任は追及されない、というルールにするだけで、現場の安心感は相当に増えるんだと思う。
- 16:17 1年間に、救急外来で勤務する医師が、訴訟で相手に支払った金額というのは調べることができて、そのお金を待遇向上のために全ての救急医に分配するのと、その金額分の訴訟を、国で補償するのと、たぶん後者のほうが、人を増やせるんだと思う。
- 16:18 訴訟に費やされたお金だって、集めれば余裕で億単位だろうけれど、それでもたぶん、100億円は行かない。3次救急の施設を新設するのにかかる予算を考えると、それは決して、そこまで法外に高いわけじゃないと思う
- 16:22 そのへんにも「見せかた」みたいなのがあって、「国がお金を持つよ」なんて宣言してみせる一方で、救急にかける予算を同じ金額だけ削減しても、あんまり文句が出ない。「制度は作るよ。お金は君たちで。給料増やしてあげるから」をやると、たぶん救急は滅ぶ
- 16:23 全く同じことをやるにしても、アナウンスを行う側と、それを聞く側と、どちらに主導権を持ってもらうのか、状況によって使い分けないといけないし、間違えると、「実」は同じでも、結果は全く異なってくる
- 21:24 @odakin あれこそがお役所仕事の原因なのかもですね。。 [in reply to odakin]
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