Fri, Apr 22

  • 13:25  スポーツというか、審判がいて、その場で与えられたテーマについて意見を戦わせるような、いわゆる的なディベートというものの実物を、結局今まで見る機会がなかった。ああいうのって、void 話法を禁じ手にするとか、ルールを徹底しようと思ったら、審判に相当な力量ないと難しそうだけれど
  • 13:27  総合格闘技の審判が「遅すぎる」なんて叩かれるのも、あれは実際問題として、限界まで鍛えて、相手の技に耐える選手を見て、果たしてどこで止めればいいのか、判断はすごく難しいのだろうと思う。速すぎれば遺恨残すし、遅すぎると大けがする
  • 13:30  ディベートみたいなのを競技でやるにしても、あまりにもクリーンなジャッジをやると、なんだか中学生日記の学級会みたいになるだろうし、ジャッジを放棄すればあとから喧嘩になる。「審判が論者よりも圧倒的に頭の回転が速い」という前提がないと、難しそうな気もする
  • 14:12  討論を授業みたいな場で行う目的というのは、「負けかた」を習う、という意味が大きいのだと思う。勝つ工夫は誰でもするし、みんなそれが目的なのだろうけれど、負けかたは習わないと泥試合になるし、自他共に遺恨を残さない負けかたというものは、たぶん習うに値する技能
  • 14:31  @fromdusktildawn 広く「学校」という場所は、失敗とか、敗北の体験を、お金を支払って購入できるというのが本来なのかな、と。ネットにアレルギーを持つ高齢者の根っこというのは、変なところをクリックして失敗したくない、という部分なのだそうですし  [in reply to fromdusktildawn]
  • 14:36  どこかの旅館だったか、観光地活性化のプロデューサーみたいな仕事にまで活動範囲を広げている人が、外の施設を見学に行くことを称して、敗北を知るために行くのだ、みたいな表現を使っていた。バキっぽいけれど、そういうの大事
  • 14:37  リアル世界でリアル負けするとあとがないから、仮想的に負けないといけない。それが「学ぶ」ことなんだと思う。本読んで、作者に勝っちゃったら、その本に投じたお金は無駄になる。で、負けかたを知らない人は、勝つことしかできないから、翻って学ぶことができない
  • 14:38  学校という場所は、だからこそ負けかたを教えるべきで、負けていい場所はお金を支払って購入する価値があるし、そういう場所にお金を支払うのなら、負ける経験を積まないともったいない。そこで負けられなかった人は、もう社会に出ても負けられないから、結局何一つ学べない
  • 15:11  カーゴカルトというのは、文明を知らない土人の笑い話などではなくて、技術の黎明、発展から崩壊にいたるプロセスの中で、必然として出現する状態なのかもしれない。原子力みたいなものにしても。平和や安全みたいな概念にしても。
  • 15:45  @p_shirokuma 考えてみれば昔は、「ビデオが手に入った」ことが、ヲタ同士のリアル社交のきっかけでしたよね。。。  [in reply to p_shirokuma]
  • 15:46  @iwtkf15eagle 狭帯域コミュニケーションというか、文字だけのやりとりと、握手できる距離でのやりとりと、心構えが全く違ってきますよね。。それを上手に使えたほうがいいのか、あえて「空気が読めない」ほうが結局強いのかはともかくとして  [in reply to iwtkf15eagle]

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