Sat, Jul 09

  • 14:58  ゆれ
  • 15:05  権威の言うことは信用される。その事例と利害を持たない人の言葉は信用される。同意するものが多い言葉は信用される。2ちゃんねるのまとめブログは正しくマスメディアの延長にある説得装置で、この流れは、新聞やテレビに逆流していかないものだろうか?
  • 15:06  昔のファンロードがそうだったけれど、新聞なんかもこう、紙面の8割が匿名の読者投稿、2割が権威筋の小記事で、ちょっと見た目記事と投稿との区別がつきにくい、という構成にしておくと、好きな人はとことん好きだし、嫌いな人は手にも取らなくなる
  • 15:07  新聞が、もはや広く一般読者を獲得するだけの力を本当に持っていないのなら、どこかでこういう方向に舵を切る新聞が出ても、それはそれで長生きしそうではある。それこそネットで十分だから、それは厳しいのか。。
  • 15:09  新聞が販売しているものは、新聞社の側からは「説得」だけれど、読者の側からは「同意」なのだと思う。説得された人が、同じ方向の記事を読み続けると、全ての記事が自身の考え方に同意してくれるように思えてくる。同意は気分がいいから、これが購入継続の力を生み出す
  • 15:10  同意提供装置として、ネットと紙媒体とではチャンネルの数が違いすぎて勝負にならない。でもネットは「軽く」て紙は「重たい」から、この勾配が残っているかぎり、「やっぱり紙でないと」という人は残る
  • 15:11  @KKanehira ふぇらーりのひとですね。。  [in reply to KKanehira]
  • 15:15  そういう意味で、新聞社やマスメディアは、どれだけ変更していると叩かれようが、「真実をありのままに伝える」ことなんてできないんだと思う。大多数の読者はたぶん、真実じゃなくて、自分の考えた世界への同意を求めてああいうの見るのだろうし
  • 15:17  漠然と「科学的な態度」というものは、科学に対する理解よりも、むしろ科学者に対する遠慮から生み出されるのだと思う。科学者という、何となく白衣着た、理解はできないけれどたぶん頭がいいんだろう、という何かを仮想して、そいつを怒らせないように振る舞うと、何となく科学的な態度になるという
  • 15:19  何かを理解したり、あまつさえ何かを発見したり、という体験は、逆説的に、「科学的な態度」から人を遠ざける。
  • 15:20  科学というのは、あるいは科学者のやっていることというのは、わくわくすることなんてほんの一部で、仕事の大部分はうんざりするような資料集めだとか、脳煮えそうな検証作業だとか、「科学は本来恐ろしく面倒くさいものなんだよ」というのを、もっと宣伝したほうがいいと思う
  • 15:21  科学というものを、発想したり、発見したり、という部分に本態があると考える人は、その人が何かを発見したとたん、科学者と対等になる。学者にとってはたぶん、発見は日常で、実際問題、そこからお金集めて資料集めて3年ぐらい部屋にこもって論文書いて、やっと事実がひとかけら手に入る
  • 15:22  このへんのギャップが埋められないと、何かを発見した人の説得コストが莫大に過ぎて、科学者は居場所をどんどん失っていくんじゃないかと思う。科学者は、腐敗した米のとぎ汁を顔にかけると死ぬけれど、そういえばどうして昔はこういうことなかったんだろう?
  • 15:24  発見すなわちゴールでなくて、発見には奥深さというか、階層構造があるんだよ、ということがあまり言われなくなったのかもしれない。EM菌とか見てるとそう思う。万能薬があまりにもイージーに適用されすぎてるというか
  • 15:25  昭和40年代の児童百科事典に「シャボン玉」という項目があって、石けん水作ればシャボン玉作れて、遊びかたが書いてあるんだけれど、じゃあどうすれば大きいのが作れるのか、どうすれば割れない石けん水が作れるのか、そこから延々「先」が書かれていた
  • 15:26  そのへんにある石けんを水に溶くだけの石けん水から、項目の最後には、子供では作れないようなシャボン玉液の作りかたが紹介されていて、子供向けの本だけれど、科学のゴールは、基本的に子供の手には負えないように書かれていた気がする。あれ大事だったんだと思う
  • 15:30  発信コストの低下が、科学者との対峙コストを劇的に下げたんだと思う。Science に論文載っけるのは大変だけれど、「こんなにうまくいきました」なんてブログ書くのは30分で済む。どちらも「発見」したものを「発信」していて、読者数も日本に限定すると、そんなに変わらないかもしれない
  • 15:30  @saktom 今はもう、なんでも発信できるから、便利だけれど怖いですよね。。  [in reply to saktom]
  • 15:32  昔はたぶん、朝日新聞の生活欄にちょっとした工夫を投稿するにしても大変だったんだと思う。プロの目は厳しいし、競争もあっただろうし。競争なし、検証コストゼロの全世界対応メディアというのは大きい
  • 15:33  何かを発見、発信して、科学者と対等の場所に立った、と自己規定した人が研究所の門を叩いても、それが1人なら無視すれば済む。そういう人が1万人になると、もう今度は科学者のほうが圧倒的少数になって、その価値を疑われてしまう
  • 15:35  @akatsukin 菌団子、そもそも内部に本当に菌が増殖しているのかどうかもろくな検証を受けていないあれを、川にブチ込んで、「いいものだから大丈夫だ」、で終了してしまうのとか、やっぱり危ないと思うのです  [in reply to akatsukin]
  • 15:37  そのあたり、楽しさを前面に押し出しすぎたというか、「その面倒なのこそが楽しいんだよ」と言うことを習わなかったというか、そのへんがあるのだと思う。
  • 15:39  @akatsukin 「ぼくのみつけたさいきょうのさいきん」なら大丈夫なんでしょうね。。。  [in reply to akatsukin]
  • 15:41  理解することは大事なことだ、と教えるのが、案外よくないんじゃないかと思う。理解したことなんて、本当にごくわずかしかないのが当たり前だし、それが大事なことだと強調すると、大事にたどり着くための効率的な方法を探索した結果として、浅い理解で勝利宣言してしまいそう
  • 15:43  小学生の頃、大学の研究室でさんざん遊ばせてもらって、研究というのは「何となく楽しそうなものだ」と思った。何となく、が正解であって、小学生レベルで「こうだ」は速すぎるというか、そこで断言できるものなんて本来はないのだろうし
  • 15:47  研究所みたいなところが、子供相手に何かの教室を開くというよりも、研究室や研究所の廊下を、子供の遊び場として開放することで、「科学的な態度の地盤」みたいなのが作れるんだと思う。「分からないけれど何となく楽しそうな人」を見ることがたぶん大事
  • 15:48  でも大人数でそれをやったら研究にならないだろうし、今思えば、子供が大学の廊下で勝手に遊んでたり、勝手に研究室に入ったりするのは、あれはものすごく迷惑だったんだろうな、とも思う。
  • 15:50  本当はこう、大人の場所と子供の場所は重なっていたほうがいいのだと思う。そうすることで、大人というのは「仕事をする人たち」から、「何か自分たちにはできないことをする人たち」へと定義が書き換わる。「仕事」なんて浅い理解よりも、「分からない」ことのほうがよっぽど正しい態度だと思う
  • 15:52  @gnsi_ismr 「状況に埋め込まれた学習」は昔読んで、なるほどとおもったのです。。  [in reply to gnsi_ismr]
  • 15:55  @blindwalk 最初に「分かる」状態は、禅だと魔界扱いなんですよね。。。京極堂の受売りですが。。  [in reply to blindwalk]
  • 15:57  教わりかたは、「世の中はこうだ」ではなくて、「世の中には訳の分からないもので満ちている。大人はそれぞれ、その一部分だけをもう少し深く分かっている」ということなのだと思う。最初に分かってしまうと、奥が見えない
  • 15:58  「訳が分からないけれど面白い」体験をするためには、莫大なデータ量が必要で、それは結局生データ、研究している人とか働いている人を、そのまんま見せて、体験するのが正解になる。危ないかもだけれど。教室というのは整いすぎている気がする
  • 15:59  @navisl_zvezda 片方は一つ積むのに2年ぐらいかかって、片方は15分で写真付きのブログをアップできて、勝負にならないですよね。。  [in reply to navisl_zvezda]
  • 16:00  @t_Signal 工場見学なんかだって危ないでしょうし、私は実際、子供の頃に研究室の歯車で指潰されましたし。。。  [in reply to t_Signal]
  • 16:05  @KKanehira 桐蔭学園を設計した丹下健三が、それを狙って廊下を広く造ったとか、なんだとか。。  [in reply to KKanehira]

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