Sat, May 05

  • 15:40  少し前に発売された「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本が面白い。本筋たる木村政彦の評伝が面白いのはもちろん、明治後半から昭和初期にかけての日本格闘界の描写が
  • 15:41  修羅の門餓狼伝、あるいは「バキ」なんかにしても、格闘漫画は現実を誇張しているどころか、昔の格闘家は過激に過ぎて、今の作家はむしろ史実を穏やかに描写しなおしているんじゃないかと思えるぐらいに
  • 15:42  高専柔道の詳解が勉強になった。名前は知っていたけれど、作者の人が「多くの人に誤解されている」と書いたそのまんまの誤解をしていた。マイナーな一分野どころか、むしろ柔道の主流に近い時代もあったのだと
  • 15:44  立ち技主体の今の柔道に、相手の道着を掴んでただ寝技に引きずり込む、それだけの動作を加えることで、同じ柔道を名乗りながらも、術理がまるで異なってくるのが面白い。ルールの脆弱性というか。そもそもの殺人技術だった昔は、畳の上で試合することが想定外だったにせよ
  • 15:46  高専柔道の試合形式、15人団体戦、勝ち抜きルール、新技ありあり、というやりかたは、新しい発想を生む素地として大いに参考になるような気がする。逆に「引きこみ禁止」のルールを一行加えることで、無数の発想がたやすく消滅した、という事実もまた
  • 15:48  多人数の勝ち抜きルールは、リスクを取る代わりに勝利を狙う「勝ち役」と、ひたすらに防御に徹することで引き分けを目指し、引き分けた結果として相手チームの強豪を潰す「分け役」の分業を生む。役割があるからこそ、監督の戦略にも意味が出てくる。
  • 15:49  今の団体戦は個人と個人とのぶつかり合いで、監督が作戦で貢献できる要素が少ないような気がする。努力した人、能力の高い人が、そのまま報酬を得られるようなルールであるとも言える。
  • 15:50  高専柔道のルールだと、たとえそれほど強くない選手が多いチームであっても、ひたすらに引き分けに徹し、相手の強力な選手を引き分けで潰し、僅差の勝利を伺うことで、作戦勝ちが見えてくる。強い人が報われない可能性こそ高くなるけれど
  • 15:51  「日本は」なんて大上段に一般関するのは早急にすぎるのかもだけれど、「作戦勝ち」みたいなやりかたを、特に武道方面の考えかたに照らして「卑怯だ」と感じる人が多いのではないかと思う。相手の長所を上手に潰して僅差の勝利、というのは「美しくない」と感じるような
  • 15:52  戦略の不在を嘆く一方で、同じ人が「一本勝ち」を賞賛したりする。むしろ「一本」の可能性をひたすらに潰してみせることこそが、戦略の効能なのに。
  • 15:54  「作戦勝ち」と「努力賞」というものは、どこか反対側の価値として扱われているような気がする。努力というのはスタートラインに立つ資格みたいなもので、資格を成果につなげるために作戦がある。資格は資格であって、それに優劣をつけ、章を与えるという考えかたがもうおかしい
  • 15:55  どんなルールを敷いたところで、結局「強い人は強い」事実には変わらないし、木村政彦はどちらのルールでも負けなしだったみたいだけれど、作戦が勝利に貢献できる余地が大きなルールのほうが、戦術の多様性は増すのではないかと思う。それは大事なことに思える
  • 16:03  規制の少ないルールは様々な戦術を生む。「勝つ」担当と「負けない」担当とが分業できるルールは戦略を育む。結果としてこれは、「これ」という戦術への収斂を防ぐ。人が常に入れ替わる場所には、成果につながるやりかただけが生き残る。こういうの大切。
  • 16:06  増えていく規制は発想を潰す。分業要素の排除は「個人の研鑽」に報いるけれど、結果として戦術を「これ」という何かに収斂させる。収斂は努力賞の余地を生む。人の入れ替わりがなくなると、名声を持った人の声がいつまでも響く。新しい人はそこから立ち去る
  • 16:10  おじいちゃんたちがしがみつく場所では、昔ながらのやりかたが「正しい」という価値を得て、生き残る。成果につながるやりかたは、しばしば「卑怯」と名指しされて排除される。人が減って煮詰まると、お爺ちゃん密度は更に増して、正義はますます正しく、純化して、異物が排除されていく
  • 16:11  ブラック企業と呼ばれるあの場所は、それぞれの業界にしがみつく「お爺ちゃん」的な人たちから見ると、逆説的に居心地の良い場所なのではないかと思える。若い人達が死ぬほど苦労して、新しい発想はまっさきに排除され、昔ながらの知識が枯死する可能性が極めて低い
  • 16:14  高専柔道の時代、毎年のように新技が生まれて試されて、講道館柔道の名人が、高専柔道の学生に後れを取ることだってあった、という史実が、あのルールが優れていたことの傍証なのだと思う。同時にそうしたやりかたは、お爺ちゃんにとっては汚らしく見えたのかもにせよ
  • 16:15  @whale6098 番狂わせって、それを見たい人と、そうあってほしくない人と、けっこう分かれちゃうんでしょうね。。  [in reply to whale6098]
  • 16:16  大相撲みたいなものにしても、今みたいな個人戦とは別に、勝ち抜きの団体戦ルールをやってほしいなと思う。東西戦で、白鳳をいきなり先鋒にする親方だっているかもしれないし、それはそれできっと面白い
  • 16:18  番狂わせ的な要素は、それを興行として主催する側からすると、まっさきに排除したい可能性に思える。チャンピオンが無名の新人に予選で敗北する絵なんて、観客は喝采だけれど、主催者はたぶん真っ青になる。主役が序盤で退場すると、決勝までの空気が持たない。
  • 16:20  プロレスは強い人が最後の最後に登場するし、テレビに録画という発想がなかった大昔、「脚本通りに番組が作れる」からこそ、プロレスは作り手にとっての最上級コンテンツとしてテレビにもてはやされた。
  • 16:21  「世の中を興行的に見る態度」というのがたぶんあって、「こうあってほしいな」という結末を、そういう人はいろんな場面に想定する。結末を演繹するのではなく、願望する。そういう人が増えると、「作戦勝ち」はつまらないものとして興行から排除されていく
  • 16:23  興行的に見る態度が、スポーツの世界だけでなく、発想や、商売やデザイン、政治や外交の世界に至るまで広まって、相手の態度を演繹するのではなく、相手にある結末を願望するような人が、いろんな場所に増えているんだと思う
  • 16:23  @whale6098 団体戦の楽しさって、きっと難しいんだろうなと。あるいはそもそも、自分は弓道でしたが、団体戦の楽しさが反映される競技が、だんだんと減っているような  [in reply to whale6098]
  • 16:26  「強い人が勝つ」のと、「強みを生かした人が勝つ」のとでは、意味合いがぜんぜん違う。前者を期待する人は、もしかしたら後者を期待はずれだと思う。強いとはどういうことなのか、このあたり定義を簡単にするのはいろいろ危ない
  • 16:28  誰に聞いてもきっと否定するけれど、強い人が勝つのが好きな人は強みを活かすことを嫌う、言い換えれば「活かすことは卑怯だ」と暗黙のうちに考えているのだと思う
  • 16:32  計算や想像って面倒くさい。もしかしたら不快ですらある。強そうな人がそのまま勝つと、計算量は最小でいける。それが気持ちよくなった人は、もっと計算量の少ない世界を求めるようになる。流れとしては、これはあまり良くないことに思える

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