医師国家試験対策委員会のこと

もう歴史を知っている人もほとんどいないと思うので。自分が経験したことも、国対委員の長い歴史のうちほんの1年だけなので、信憑性についてははなはだ疑わしい。

黎明期、医師国家試験のセキュリティがまだまだ甘かった頃、試験問題を作った先生方の卒業試験、臨床講義のプリントなどから全く同じ問題が出題されるといったことが本当にあったらしい。単に出題症例がどこかで習ったような患者さんだった、といったレベルから、某講義で配られた「24問目は頭蓋骨の写真が出ていたら回答はB」といった異様に具体的な情報まで、さまざまだったらしい(昭和50年代以前)。

当初、情報といえば東大1本だったようだが昭和50年は東大卒業生が一人もいない…。このころからさまざまな大学から少しずつ情報が出回る、以後の状態に近くなっていく。

当時はまだまだ全国区で情報を共有しようなどという働きかけはなく、学生が個人どうしで情報(?)を交換し合う程度。大手の体育会の主将経験者などが、全国大会(主に東医体か?)を通じて知り合った各大学の同級生の臨床講義プリントをコピーして学年で回していたらしい。試験前夜になると一部の学生、一部の大学のみに出所のはっきりしないプリントが出回り、受験生の疑心暗鬼ぶりに拍車をかけていたという。こうした怪しげな情報は非常に問題になったらしいが、国試にかかわる学生はほとんどが来年には卒業してしまったため、なかなか情報の共有には至らなかったようだ。

動きがあったのは昭和60年に入るかどうかのころ。当初は関東近郊の医学部が試験プリントを交換する会を作ったらしい。この会の情報の出所は、ほとんどが某大手国立大学。数年間は上手くいっていたが、当の受験生のセキュリティ意識はまだまだ甘く、国試終了後にプリントを駅のごみ箱に捨てる輩が続出、それをマスコミが報道するに至って大手大学が情報交換会からの撤退を表明、話は振り出しに戻る。

その後も情報交換の会は続いたが、最大の情報提供元が撤退して以後は情報量も激減、国試委員の存在意義も薄れ始めたころ、気を吐いたのが某私立大学。コンパ(死語)等で培った人間関係を生かし、撤退した某大学の試験情報プリントを入手、大学ごとの「物々交換」のような形でこうした情報が出回る時期が数年続く。

こうした情報の恩恵にあずかれたのは、それでも関東周辺の一部大学のみ。そもそも国試の問題作成をしている先生の居られない大学では物々交換に参加できるわけもなく、とくに東北地方以北の大学は焦燥感にかられていたらしい。

そのうち、「東北地方の某大学情報」なるプリントが国試前に流れるようになったが、これは関東地方の情報との物々交換前提で作られたフェイクの情報プリントであった(らしい)。こうして本当の情報プリント、偽のプリント等が大学ごとにランダムに出回ることになり、国試前夜の情報は混乱を極めるようになり、全国区の国試対策委員会ができるようになった。

全国規模に展開した国試委員会は、しばらくの間は安定して機能した。情報プリントには「秘密のアッコちゃん」「楽園通信」などといった名前が付けられ配布されていた。「腹腹時計」「新しいビタミン療法」「球根栽培法」などの名前が復活してこなかったのは、委員に医学連関係者が一人もいなかったためか。

国試委員の中には臨床医のキャリアを捨ててフルタイムの出版業務に乗り出した方もいたり、委員会の規模も徐々に大きくなったがそれと同時にマスコミの注目も大きくなっていく。

医学生は、国試前に全国委員を作って集団でカンニングをしているらしい」という話を聞きつけ、毎年のようにさまざまなマスコミから取材要請がきていたようだが、そんな取材などだれも受けたくはない。皆自分のことで精一杯だった。

委員会の規模の増加、そしてマスコミ対策の強化のために国試委員の装備は年毎に重装になっていく。インターネットや電子メールなど無い時代、連絡の手段といえばFAXのみだった。国家試験の2日間に発行されるプリントは数百枚、普通の家庭用の機械で対応できるわけもなく、レンタルするのは業務用のコピー機兼用のもの。そんなものを置けるスペースなど大学にはなく、またマスコミから身を隠すために本部は大学とは別に設置する。

たいていは、国試数日前に架空名義でどこかのホテルの大きな部屋を借りる。そこにNTTから電話回線を3-4本レンタルしてFAXを接続、その連絡先は各大学の国試委員しか知らない。さらに、国試前日から中央の国試委員は弁当を数日分持参した上でその部屋に篭城、国試の翌日までは原則として一歩も外には出ない。ホテルの電話は外してもらい、国試委員のFAX以外の外部からの連絡手段はすべて遮断して国試にのぞむ。

各大学の国試委員は自校の先輩方のホテルの手配、モーニングコール(朝すべての部屋を回って、万が一おきてこない人がいたら何が何でも叩きおこす)といった仕事とは別に、中央本部から送られてくるFAXを各部屋にコピーして届ける。ホテル周辺のコンビニをチェックするのはもちろんのこと、機械の故障に備えて予備のトナー、数千枚のコピー用紙を持参、プリントがFAXされてくるたびにそれをコピーし、各部屋に夜通し配布して回る。徹夜はあたりまえ。

備えは万全…だったはずが、ある年これが破られた。例年どおりホテル缶詰状態で本部設営に入っていた国試前日、国試委員以外知る人がいないはずの国対FAXに某放送局からの取材要請が入ってきた。最初は無視していても、そのうち脅迫文のようなFAXが。「応答が無い場合は、あなた方を密室で集団カンニング行為を扇動している学生集団として番組で告発します」という文面が流れるようになり、この時点で本部のプレッシャーは相当なものになった。

さらにNTTからどう漏れたのか、電話回線のレンタル情報から本部のあるホテルを特定され、たまたまジュースを買いに外に出た国試委員が報道員に尾行され、部屋番号が割れた。ドア一枚越しの緊迫したやり取りが数時間続いた後、結局その年の国試対策委員会は2日目の活動を中止せざるを得なくなる。

マスコミのやり方もあまりにもえげつなかったためか、結果としてそのときの取材の様子は放映されることはなかった。このときの情報漏れについては後々問題になったが、どうもどこかの大学のコピー機に国対FAXの番号が書いて貼ってあったようで、たまたま取材にきていたスタッフがこの番号をメモしていたらしい。

学生ごときに社会的な力などあるわけもなく、マスコミに面白おかしく報道などされた日には自分の首だって危ない。翌年の国試対策の運営をどうするのか、かなり議論があったようだがこのころ以後は自分はかかわっていない(もう受験の当事者だ)。ただ、ほとんどのプリントが業者主導のものになり、現在は昔のような大規模な本部などはなくなり、代わりに国家試験予備校がその役割を果たしているらしい。

実際問題、こうした直前情報プリントなどを熟読したところで「役に立つ」ことなど何もありはしない。これは多分すべての受験生が認めるところだと思うが、どんな情報が回ったところで、落ちる奴は落ちるし、受かる奴は何も見ないでも合格する。

自分が国試対策委員会をやったのは純粋に「面白かったから」。医学生の全国組織は数あれど、国試対策委員会ほどその活動内容が正体不明で、一方大規模に活動していた集団は他になかった。やって得られたものは何もなかったし、自分の受験2日前までホテルの手配や弁当の注文に走り回っていた(正直、受験どころじゃなかった)が、そのときの経験で今役に立っていることなど何一つ無い。ただ、当時の委員はみなこうした「お祭り」を楽しんでいたし、その後2度と同じような経験をすることはなかった。

「秘密情報はみんなで共有すれば秘密じゃなくなる」国試対策委員会の目的はこれにつきる。くだらない情報に振り回されるぐらいなら、もうそれらをすべて配って共有してしまえば情報に振り回されることなどなくなり、自分のしたい勉強に集中できる。日本中の全医学生がバイト代をはたき、インターネットが普及するはるか前からこうした情報の共有を目指していた。動機はともかく、それだけはたしかだ。

常識かもしれないが、イヤーノートの原型は国試対策プリントの集積。これに各大学の国試委員が面白そうな表、講義のプリントから分かりやすかった説明などを持ち寄って原稿を作ったのがはしり。いまは、専任のライターの先生がいらっしゃるようだが。

グリーン本(今もあるのだろうか)というものも、国家試験が終わった後で国試委員をやっていた学生が原稿を書いていた時期がある。いまはどうなのだろうか。

イヤーノートにはいろいろ批判も多いが、学生が中心になって、自分たちが本当に欲しい教科書を作ってしまったという部分ではもっと評価されてもいいと思うし、イヤーノートのおかげで売れなくなった教科書はその編集方針をもっと反省するべきだと思う。朝倉内科などをいま読み返しても、学生当時も現在の臨床の現場でも、まったく使える記載がないのには驚くしかない。ワシントンマニュアルやカレントの翻訳版がよい教科書として幅を利かせている現状は、出版社として情けなくならないのだろうか。