美しい治療

患者を死なせたくて治療を開始する医者はいない。

ホスピスをはじめとする終末期医療は例外だが、あちらは「どう生きたか」が目標の科で、「どれだけの時間生きられるか」が目標になる内科/外科とは思想が違う。

患者を受け持った医師はまず治療のプランを立て、大体何日目にはこのぐらいによくなっているだろう、という目処をつけて治療に臨む。治療プランは往々にしてうまくいかず、よくなるはずのプランどおりに治療が進行することはむしろ少ない。

主治医にとって、自分の治療プランの失敗を認めることは敗北だ。患者さんに治療プランどおりの回復が認められなかった場合、医師は自分の実力を直視するのを避けたいという心理が働く。

患者さんが目標どおりによくならなくても、「この患者の場合は負けてもしょうがない」と思ったり、また当初の治療プランの中に病院の全力を投入していなかったとしても「この患者にPCPSを入れても足が腐るだけ」とか、「挿管->気切は本人も望まなかったよ」などと、うまくいかなかった場合のいいわけを考えてしまい、治療プランを変更する決断が下せないことがある。

常識的に考えれば、プランどおりにいかなければプランを変更すればよい。しかし、プランを変更するということは自分の当初の考えの間違えを認めることだ。もともとプライドが高く、同僚の目も必ずしも温かでない医師という仕事では、しばしばプライドがプランの変更をためらわせてしまう。

誰もが「きれいな」治療をしたいと考えている。最低限の薬を使い、治療は内服と最小限の点滴だけ、患者さん自身の回復力を信じて経過を追い、退院時には「私達は、患者さんが治るのを手助けしただけですから‥」と内心鼻高々に謙そんしてみせる自分を思い描いている。

透析、挿管、心カテ等のの侵襲的な手技は、同僚からは"汚い"治療とみなされる。侵襲的な手技には当然合併症の問題が付きまとうし、昨今の医療経済がらみの報道、高度医療をバカみたいに行う医師は腕が悪いような表現をするマスコミの記事などは、こうした汚い治療への選択をためらわせる。

病気で入院してくる患者は誰もが死にたくない。主治医の美意識のためなら命を投げ出してもいいなどという患者はいるわけもない。治療がうまくいっていないとき、どうも予想と違った方向に流れが向きそうなとき、「自分の考えた美しい治療プランが破綻する」と思えたときには、医師は自分のプランを変更することをためらってはならない。

感染症診療で高名な、青木先生のモットーは「Be invasive ,Use toxics」だ。

自分も上記のような反省があり、自分の中で考える治療プランがなるべく「きれいになりすぎない」ように気をつけているのだが、数年に1回程度、ICUの先生方からも「先生、えげつないことしますね」と呆れられるような治療プランで奇跡のように回復する患者はたしかにいる。

そういった症例を経験すると、最近世間からは馬鹿にされつつある西洋医学は、本気を出せばすごいんだとうれしくなる。一方で、最近評判の「EBMに基づいた正しい治療」をやられて殺された人は、年間何人に上るのだろう。

医療経済的には無茶なのは分かっている。同僚からもよく「バカ」との批判がある。それでも、世の中の医者の何割かはまだまだ出せる「本気の力」を隠しているような気がしてならない。

このご時世、EBMという神様に逆らっても誰も評価してはくれないけれど。