正しいことだけがすべてではない

他科と共同で患者さんを診療していると、時々出くわすのが「正しい」治療を振り回す先生である。

EBMという(ひどく誤解されている)概念が出回ってから余計にひどくなったが、「ガイドラインからは先生の処方は無意味です」「その検査のエビデンスは何ですか?」と、自分の意見を通したいとき、相手の意見をさえぎりたいときに2言目には「エビデンス」という忌まわしい単語が出てくる。

EBM大好きな先生方は、基本的には正しいことを言っている。彼らの言わんとすることは論文にもなっており、全くの見当違いを強弁しているのとはわけが違う。

しかし、その意見表明の仕方が拙劣に過ぎ、全く不要な喧嘩を引き起こしている。議論の目的は患者さんを治すことで、相手を打ち負かすことではないはずなのだが、そうした人たち相手に少々こちらの意見を述べようものなら「EBM!EBM!!」の狂信的な連呼が始まり、議論はなかなか落しどころまでたどり着けない。

彼らが患者さんに対して全面的に責任を負ってくれることは決してない。相談に乗ってもらったことを後悔する頃にはお互い疲れきっており、「2度と相談なんかするものか」という気分になる。

正しい」だけでは、意味がないのだ。正しいことを叫ぶだけなら、子どもでも出来る。自分の意見を相手に聞いてもらいたいならば、それなりのテクニックが必要だ。

何かその患者さんに対して相手が明らかに間違えた事をしている場合、自分にもっとたしかな知識があって、自分の意見を聞いてもらうことで患者さんがよくなりそうなとき、「先生、そんな腐った治療はさっさと止めて、○○使いませんか?大体その治療、なんかエビデンスあるんですか?」などとやったら(またそうするのは楽しいんだ‥)、相手は意地になって自分達の治療に固執するだろう。相談を受けることは二度となく、結局不利益をこうむるのは患者さんだ。

悪いのはエビデンスのない治療に固執した医師である。しかし、結果としてこの人の態度を改めさせることに失敗し、患者さんの治療が改善される機会を失わせた責任は、拙劣な叱りかたをした医師にある。

結果をださなければ評価されないのが社会というものだ。「正しい」知識を勉強している先生であっても、自分にかかわった患者さんの予後改善にその知識を生かせないのならば何の意味もない。

そうはいっても、論戦を挑み、相手を理路整然と論破したときの爽快感は何物にも代えがたい。

「外科医は10年目と11年目ぐらいになっても、その1年の差が一生埋まらない。メッツェンバウムの動かし方、糸結びの正確さなどにどうやっても追いつけない差が出る。これが外科の面白いところであり、奥深いところだ。」

自分が外科をローテーションしたとき、当時のチーフからこんなことを聞かされた。外科は常にチームを信頼し、家族のようなチームはしばしば信じられない手術をやってのける。


復讐とは何と心の弾むものなんでしょう。屈辱から自分を解放するこの喜びは何にたとえたらいいのだろう。
内科医の醍醐味は、下克上だ。かつて厳しくされた先輩ドクターに対して「わぁ先生、そんなことも知らないんですかぁ?」と、先輩の面子を叩き潰す自分の姿を夢見ながら、内科医は日々勉強を続ける。

今からブッ潰すぜ!

小便すませたか?

神様にお祈りは?

部屋のスミでガタガタふるえて命ごいをする心の準備はOK?

「このままもう一押しすれば相手を潰せる」というまさにそのときこそ、内科を勉強していてよかったと心から実感できる瞬間である。その一押しを我慢できるならば自分は内科などやっていない。