手に職のついた医者

研修医を育てるにはお金がかかる。研修医の手技には無駄が多く、一方給料だけはきっちり持っていかれる。

自分が研修をさせてもらった当時、研修医が自分の食い扶持を自分で稼げるようになるまで最低3年、その間に病院が持ち出すお金は一人当たり2000万円程度と教えられたことがある。当時は何を大げさなとも思ったが、今考えるとたしかにそのぐらいのお金はかかっているのだろう。それでも多分、他の業界で戦力になる人材を作るのに比べれば安上がりだ。

今の研修医には、大学病院の医局に入って一生をそこに所属して過ごすなんていう考えは全然無い。自分が研修医の教育を受けた頃は、大学を離れて外の病院で研修を受ける奴など変わり者扱いであったが、今では大学病院に残る連中が負け組み扱いだ。

卒業生の関心は、「どういうキャリアを積めば最も効率がよいか」であって、どこか大きな医局に研修医として入り、そこでずっと一生勤め上げようなんて気はこれっぽっちもない。

研修医を迎える側からは面白くない話ではあるが、正しいのは今の研修医のほうだ。大学病院が10年後にどれだけ生き残っているのか、自分達が15年目を迎える頃、どこかの病院で独り立ちした医者としての就職を考える頃に大学医局制度がどの程度残っているのかなど誰にも分からない。

そんな中で最後まで信じられるのは、自分の実力だけだ。「手に職をつけた」奴は、どんな状況になっても生き残れる。問題はこの「手に職」がついた状態というものを誰も定義をしてくれないところで、○○病院で研修をした、留学歴がある、認定医などの資格をもっているといったことは重要ではあっても、それが全てではないような気がする。

「手に職がついた状態」とはどういうことか。とりあえずはどこの病院にいっても、そこで自分の力だけで病棟運営、外来運営を事故無くこなせる状態と定義したい。必要な能力は、他科の医師と話し合いつつ現場で困ったことを何とかする能力、分解すると「コミュニケーション能力」と「問題発見・解決能力」の2つになるだろう。

現在、そうした能力を身につけさせてくれる施設はあるのだろうか。答えとしてはもう無くなった、あるいは昔はそうした経験を身につけさせてくれる施設があったというところだろうか。

小さな医局で全員が集まっていた時代、臨床研修医の教育というものは先輩達からの口伝が主なものだった。ワシントンマニュアルなどまだまだ日本ではマイナーで、サンフォードの抗生物質ガイド(「熱病」の漢字のやつ)など誰も知らなかった頃だ。EBMに基づいた標準的な治療法など誰も知らず、病棟の患者で何か問題があったら、先輩医師のアドバイスを仰ぐ以外に方法が無かった。

先輩医師にしても、エビデンスに裏打ちされた完全な解決策など知る由も無い(得意分野は別)。自分の過去の経験から、「こうしたら上手くいった」というものを探し出し、それを教えてくれる。そのものずばりの知識であることはめったに無く、それが100%正しいなどという確証もあるわけでも無い。

じゃあ文献を調べれば…という意見も必ず出るだろうが時代を読んで欲しい。たかだか10年前とはいえ、パソコンといえばWin3.1の時代。データベース化した論文検索など出来るわけも無く、「文献を調べる」といえば週末に図書室にこもることを意味していた。目の前の問題に対して文献でその解決法を探る方法論は、本当に最近の話だ。

こうした口伝えによる不完全な経験の伝達は欠点だらけだ。しかし、不完全な知識の中から自分の抱えている問題点に関する情報をピックアップする技術、与えてもらった情報から現実的な回答を作り出す技術はかなり鍛えられたと思う。

自分の探し出した「回答」が正しいものなのかどうかは、患者さんが決めてくれる。間違っていれば当然悪くなる。入院患者が悪くなれば病院が傾くので、先輩方も必死だ。ヌルい意見を吐こうものなら徹底的にやり込められたし、また正しいものの考えかた、絶対にやってはいけないことなどを熱心にそういうのをたたき込んでくれた。

技術の進歩と共に人間関係はどんどん希薄になり、一方で情報の入手は極めて容易になった。

新人に対して鉄拳制裁したり、怒鳴りとばしたりする先輩医師はほぼ絶滅した。さらにローテーション制度が導入されるようにになって、研修医にそこまで手間をかけて教育する施設はほぼ無くなった。

研修医はそこそこの性能で安く量産できるようになった一方、独立した、手に職のついた医者になるための教育を受けさせてくれる病院は本当に少なくなった。

今は、どこの病院に就職しても、それだけで世の中を渡っていける技術など身につかない。「手に職」が欲しかったら、自分で盗み取るしかない。

これは結局のところ、ローテーション研修時代を終えたら、大昔の無給医局員時代に戻って、どこかの病院で10年近く丁稚奉公を続ける以外に独立した医師になどなれないということになるのだが、そこまで悲惨な思いをしなくても、もう少し何かいい方法があるような気がする。

このあたりは状況に埋め込まれた学習という本に詳しい。

例えば女系家族助産婦業を引き継いでいく一族を調べると、全然「職業教育」をしている様子がないのに、いつの間にか助産婦の仕事を覚えている。そうかと思うとある肉加工職人組合では、職場研修をちゃんとやっているのに、そこで簡単な仕事にこき使われるばかりで肝心の仕事が覚えられない。

どうしてこうした差が生じるのかを考察していくと、前者は(周辺に)参加させてもらって、先輩の体験談を聞かせてもらっているのに、後者は覚えるべき仕事をドアの向こうでやっていて、見よう見まねの見習者としてすら参加させてもらっていないという結論にたどりつく。

医療の業界も分業化が進み、他科に何かコンサルテーションを行っている際にはその科に任せ、自分達は彼らの仕事には参加しないで他のことをしている、ということはよくある。

上級生と下級生との関係も同様で、人間関係が希薄になった昨今、ずっと一緒に考えて行動することが本当に減り、病棟で1日に数回顔を合わせては上級生のオーダーを下級生が受け取り、自分に出来る範囲の仕事を黙ってやるという仕事が増えた。

今の希薄な人間関係に慣れてしまうと、また昔のように「ずっと一緒」の状態になるほどの体力が自分に残っていないことに気がつく。人から情報を得るにはエネルギーが要る。キーボードを少し叩くだけで情報が手に入るようになると、人と人とのコミュニケーションはうっとおしい。ましてや、3ヶ月ごとに初対面の新人が来るのだからなおさらだ。

インターネットやパソコンの普及は、医者の仕事スタイルを大きく変えた。分業化が進み、情報の共有もわざわざ同じ場所に人が集まる必要も無くなった。一方、技術を使う人間の頭の中まではそう大きくは変わらない。情報が容易に入手できる一方、個人同士での情報伝達の機会は激減した。これを何か別の方法で補わなくてはまずいということは皆わかっているのだが、まだ何をすれば一番正しいのかは誰も正解を知らない。技術はすさまじい勢いで進歩したが、それを運用する側は必ずしもそうなっていない。

このままの状態は、お互い絶対にいいことがないとは分かっているのだが、何かよい解決策は無いだろうか。