一般内科医とひじきとの悲しい関係

小学生の遠足のとき、ガキ共が皆弁当箱を広げた情景を想像してほしい。

ガキだけに好き嫌いはさまざまだ。卵焼きが好きな奴、ハンバーグが好きな奴、いろいろいるがしょせんはこどもの味覚だ。なんでも好きな奴なんてそう多くは無い。

どんな奴の弁当にも必ず入っているのが「ひじき」だ。こいつはこどもがどんなに嫌がっても、お母さんは必ず弁当の一角にこいつを入れる。しかし、これが心から好きな奴はそんなに多くないはずだ。

この集団の中に、普段は地味な奴が一人いると仮定しよう。

こいつが、このときとばかりにいいところを見せようと、「僕、ひじきが好きなんだぞ」と周りの連中に宣言したとする。


「じゃあ、ひじきあげるからハンバーグ頂戴」
「僕卵焼き欲しい」
「僕ソーセージ」

しょせんはガキだ。何でも食べられる奴を素直に賞賛することなどありはしない。余計な宣言をした奴は「ひじき君」などと適当なあだ名をつけられ、ひじきで真っ黒になった自分の弁当箱を涙目で見つめるはめになる。

一般内科の立場も、ひじきの山を見て泣く子供と同じだ。

下手に「何でも診れます」などと宣言しようものなら、他科から紹介されるのは自分達がもてあましている患者、食事の取れなくなった高齢の寝たきり患者、行き場の無い褥瘡+発熱の患者、腎不全に心不全を合併した超高齢の患者などなど。各専門科ではそれ以上やることの無い、一方で「治癒」を目指すには問題点が多すぎる患者はどこの科にもいる。

「専門科としてはやれることはないから、あとは一般内科の先生よろしくね」

この言葉は、要は一般内科を体のいい後始末係としか思っていないわけだ。

「一般」とか、「総合」とか言う言葉にあこがれる奴は実は結構いる(と信じている…)。ただ、そうした連中は、本当は卵焼きもハンバーグもソーセージも何でも食べるのが好きなだけなのに、気がつくと「ひじき好き」のレッテルが貼られて自分の弁当箱にはひじきの山が出来てしまう…。

こうなるのがいやで、総合野郎は内視鏡やカテの陰に隠れる。自分も本来は一般内科だが、今はカテ屋を隠れ蓑にして手の届く範囲で細々と総合屋をやっている。当院にも「総合診療部」はあるが、そこは最初からドロドロの重症患者は拒否している。リラクセーションとか、漢方とか、なにかそんなことをやっているみたいだ。

総合診療屋として生き残っていくのは難しい。悪いことに、総合診療の分野で有名な先生の自己アピールのしかたも、末端でこそこそ一般屋をやっている奴を日の当たる世界に出しにくくしている。

一般内科を公言して、そのとおりに一般/総合内科をやっている先生方は確かにすごい。うらやましい。だが、彼らの総合診療のアピールのしかたはこうだ。

いいのか?俺はひじきでも食っちまう男なんだぜ (C) 阿部高和

他科がこれを聞いてうらやましいか?こういった話をきいても、よその科からは「どうぞどうぞご自由に」以外の返事は返ってこない。

大事なのは「ひじきのおいしさ」「ひじきを食べることの大切さ」を世に知らしめることで、ひじきを食っている自分のすごさを声高に宣言することではないだろう。

欧米で一般内科を専攻して帰ってきた先生には、すごい人たちが大勢いる。一方で、彼らのやっていることは、無理をすればどの科にも出来ることの延長にすぎない。

一般内科独特のものの考えかた、「総合的に」人を診るとは結局どういうことなのか、問題点のこじれた患者、行き場の無い患者を楽しく診るにはどういう技術が必要なのか。「患者さんと心を通わせる楽しさ」なんていうのではだめだ。それは大人の言い分だ。「だってハンバーグのほうがおいしーんだもーん」などとバカ全開で反論してくるガキ共を納得させる理屈を作らないと、一般内科は絶対に広まらない。

高齢化に伴い、誰もが診たがらない患者の数はすごい勢いで増えている。何か「ひじきの画期的においしい食べかた」に相当するものが見つかれば、この業界は一気に参入者が増える。なにせみんなが嫌っている分野だ。競争相手など誰もおらず、一方世界に何人などという奇病と違ってパイの大きさは無限に大きい。この分野のパイオニアになれればもう人生左団扇だ。

そんなことを考えながら数年、いまだに「ひじきのおいしい食べかた」は見つからず、自分は相変わらずカテの影でこそこそと一般内科的なことをやっている。だれかいい方法を考えついてくれないだろうか。