経験を物語として伝える

自分の経験を下級生に教えるには、カンファレンスよりも医局でのバカ話のほうが効果があるという話。


むかし、不信の病にとりつかれた王がいました。自分の妃すら信じることができないので、次々と妃をめとっては、翌朝殺してしまうのです。

この王のもとへシェラザード姫が嫁いできました。その夜姫は、王におとぎ話を語りはじめましたが、朝になるとやめてしまいました。「続きはまた今夜.....」。続きが聞きたくてたまらない王は、もう一日姫を生かしておくことにしました。

こうしてシェラザード姫は、夜な夜な王に物語をきかせ、語ることで生き延び、生き延びるためにまた語るのでした。

シンドバッドの冒険、アリババと40人の盗賊、魔法のランプ…。千と一夜にわたって語り続けられた数々の物語、それが千夜一夜物語アラビアンナイト』なのです。

千と一夜が明けた朝、王の病はすっかり癒え、姫との間に子も生まれていました。姫を愛し、よく国を治め、幸せに暮らしました。

インターネットによる文献検索が全盛の時代である。いままで言い伝えられてきた「造影検査中に患者の鼻が詰まりだすと、その直後アナフィラキシーショックがおきる」などといったフォークロアは、「エビデンスが無い」の一言で破壊された。上級生の昔のバカ話にも、研修医の興味は薄れつつある。

今の研修医には時間が無い。1つの科をローテーションする時間は3ヶ月しかない以上、吸収する情報は整理されたもの、純粋なものだけが好まれ、先輩の過去の体験談など見向きもされない。


どうせそんな昔話など、1例報告でしょう?大体先輩、EBMって言葉知ってるんですか?僕達あと1ヶ月で病棟移りますけど、その話覚える必要あります?

昔話をだらだらする医者はのろまに見える。不純物の多い情報は好まれない。情報の純化に伴い、臨床現場でのさまざまな知識は抽象化され、切り捨てられる。

現在では、面白い言い伝えは無駄なもの、学問的でないものとされ、後輩には伝えられない。

こんなにすごい症例を治した、こんなに困難な場面をこうやって切り抜けたといった体験談は、それだけで最高に面白い物語であり、また後々役に立つ知識として自分に残る。なのに、それが抽象化された知識の羅列になったとたんにつまらなくなり、同時に臨床の現場で何の役にも立たない知識になってしまう。

物語が抽象化される段階で切り捨てられるものはなんだろうか。

生きているヒヨコをジューサーにかける場面を想像してほしい(グロですいません…)。


ジューサーの中で生きていたヒヨコは、我々がスイッチを入れると同時にこなごなになり、やがて羽と肉と血液の混合物になる。

スイッチを入れる前と後とで、ジューサーの中身は全く変わっていない。液体になったヒヨコは液体だから扱いやすく、応用も自在…そんなことはない。

その液体はもはやヒヨコでもなんでもなく、ただの血と肉の混合物だ。では、中身が変わっていないのに、スイッチを入れることで失われたものとはいったいなんだろうか。

人により、その答えは「構造」であったり「生命」であったり、宗教家は「魂」といったりするかもしれないが、いずれにしても目で見て分かる物質的なものが何一つ変わらなくても、失われるものは存在する。
知識を抽象化するという行為もまた、これと同じことをしている気がする。

知識というのはそれが正しいものであるのは大前提であるが、正しい場所、正しいタイミングで行使されなくては何の意味も無い。

いくつもの物語が集まり、それが抽象化されて知識となり、さらにそれが集まって教科書になっていく過程の中で、こうしたタイミング的なもの、時間的な要素は失われる。

そうした抽象的な知識は有名なジャーナルの名前で飾り立てられ、それを覚えることで何でも出来そうな気すらする。だが実際には、抽象化の過程で失われたものというのはあまりに大きく、ありがたげな論文をプリントアウトして手元に保管しておいても、その内容が臨床の現場の武器になる日は来ないこともしばしばである。

失敗すると死につながるような職業、炭鉱とか、猟師といった危険な仕事をする人たちは、さまざまな知識を物語の形で次の世代に伝えた。若手は熟達した人と時間を共にし、そこで語られる昔話を頭に刻みながら、いざというときに備えた。

こうした方法はしばしば非常に効率が悪く、また昔話の分け前に預かれない若手には不公平なシステムにもなりうる。

今のEBM全盛の風潮からは、自分のつたない臨床経験からも明らかに直感に外れる意見が「正しい知識」として伝えられ、またそれに反論できる空気が作られにくい。

この流れは必ずゆり戻しが来ると信じているが、そのときに有用な物語を伝承している医師はどれだけ残っているのだろう。