鉄火場を乗り切る言霊

救急病院の病棟は急変が多い。

胸痛精査で入院した患者がショック状態、PCI中の患者のVf、喘息患者の急変などなど。

患者の急変は予想できない。後から振り返れば予兆はあったのかもしれない。「そんなこと、予想しておくのが常識だよ」などと、当事者でない人は言い放つのかもしれない。「常識」などというものは、所詮観測された事実を合理的に説明した論理に過ぎない。後知恵でものを言われても、現場はむかつくだけだ。

急変中は、どうすればいいのかを調べている時間は無い。とにかく悪くなっていく戦況を立て直し、その場にいた人たちの知識を結集して原因を考え、治療を行っていく。決断を迷っている時間はない。

急変の現場に参加した人は、どうすればいいのかを全員で考える。頭フルに使うのは、参加した人間の義務だ。一方、そういった意見の中から「正しい」と思われる選択肢を決定するのは、その場を仕切るリーダーの役割になる。ものすごいプレッシャーがかかる。

議論は心マ中、挿管中、あるいはPCPSを入れながら、たいていは意識のない患者さんの胸の上で行われる。ノルアドレナリン、ボスミンといったカテコラミン類の静注が行われる中、参加したメンバーの血中カテコラミン濃度はそれ以上に上がる。

こういった鉄火場での議論の作法は、通常の病棟での議論とは全く異なる。病棟での日常業務に対比すると、急変の鉄火場は非日常の空間だ。特別な場所では、普通に話されるような言葉であっても特別な力を持つ言霊に変化する。こうした場では、言葉には物理的に証明できない、何らかの力が宿る。

急変の鉄火場では言葉を不用意に使うべきではないし、言っていいことと悪いこととに注意しなくてはならない。

個人的には、こうした急変時には以下のようなことに気を使っている。例によって、個人的な意見のみ。正しいのかどうかは分からない。

うまくいっている状態を報告しつづける
急変の最初期には、とにかくバイタルを安定させるためにあらゆることをやる。診断は二の次になる。このときの初動でつまずくと、リーダーをやっている医師の気分は最悪になる。リーダーを支え、冷静な決断をする力を強化するのは周囲の人間の同意である。

血圧のわずかな上昇、上昇していたSTの正常化、SpO2の正常化等、たとえそれがわずかな変化であってもよい方向の変化であればすぐに報告をあげ、「周囲はリーダーの決断を支持している」というメッセージを送りつづける。

悪い情報は入れない
鉄火場では、正しい情報なら何でも入れればいいわけではない。悪い情報は、リーダーの思考回路を混乱させ、冷静な判断を狂わせる。だいたい、「血圧戻りませんね…」「呼吸止まりました!」などと報告されても、リーダーだって「上げろ」「挿管しとけ」以外の返事が出せるわけが無い。

否定的な変化の情報は、それだけを報告しても何らいいことが無い。否定的な変化を見た場合は、まず自分で出来る範囲での対策を考える。リーダー以外の人間は、急変した患者さんに対して「他人事」で思考することが出来る。たとえリーダーよりも知力が劣っていても、あるいは正解に近い対策が打てるかもしれない。

「血圧が触れません!」と報告する代わりに「ノルアド打ちましょうか?」「心マしましょうか」といった解決策を提案する形でネガティブな情報を入れる。それがたとえリーダーの意思に反した提案であっても、リーダーの決定案の叩き台になるだけでも解決策を提案する価値はある。ただし、時間の全く無い状況なので、こちらの出す提案も一瞬で考えなくてはならない。

本質でない問題はリーダー抜きで解決して報告する
何が本質なのかを問われると返答のしようが無いが、たとえば心臓マッサージになった患者さんの救命処置においては、心臓の問題は本質であっても気道の問題は本質ではない。

心臓が止まれば呼吸も止まる。挿管してバッグをもむのは自明なので、「挿管します」「挿管チューブの位置の確認できました」の2語のみリーダーに報告し、後の判断は気道部隊が自分達の責任でやる。

リーダーはその間、全体の指揮と心臓の治療という、問題の本質に専念できる。

解説者にはならない
鉄火場に不慣れな奴に多いのだが、リーダーの決断に対して「これは先生、○○を想定しているんですよね」とか、「ところで先生、この疾患の除外は行ってます?」などと解説者面して議論に参加してはならない。

鉄火場に集まった医師は、文字通り火のようになっている。そこに水をぶっ掛ける奴は必要ない。絶対に誤解されると思うのだが、冷静に考えるのと「場」の温度を下げるのとは全く違う。格闘家はリングに上がる際には熱くなっているが、冷静である。

行動学の話で行くと、通常の病棟での議論はJ.RasmussennのSRKモデルで言うところの知識ベースで行われるのに対し、急変の現場では、医師はルールベースからスキルベースのレベルで対処を行っている。ここで他人事のような質問を出されると、リーダーの頭が知識ベースのレベルに強引に戻されてしまい、とっさの対処が遅れてしまう。

鉄火場で冷静に考えられる余裕があるなら、もう少し冷静になって、自分の考えた解決策を「当事者の一員として」リーダーに提案する。リーダーに「解答」を求めるような、突き放した態度で質問をしてはならない。

あきらめない
急変時のこうした気遣いは、つまるところチームは絶対にあきらめない、患者さんは絶対に治るとチームに暗示をかけつづける行為に他ならない。

チームが患者さんの未来を信じられなくなったら、間違えなくその人は死ぬ。

暗示の外に出てあきらめるのは、チームリーダーにだけ許される行為だ。

それ以外の人間は絶対にあきらめてはならない。

「あきらめませんか?」などとリーダーに進言してはならない。そんなことをするぐらいなら、黙って心マの手を下ろしてERから出て行ってくれたほうがまだましだ。

SRKモデルについて

人間の行動レベルはスキルベース、ルールベース、知識ベースに分類できる。

知識ベース:初めての事象に遭遇したとき、意識上で内外の知識を参照し、考えて対処する。初心者はすべて知識ベースで行動する。この認識プロセスは確実な反面、時間がかかる。

ルールベース:よく経験する事象に関して、対処方法があらかじめパターン化され、事象に対して適当な対処方法が当てはめられることにより対処されます。マニュアル通りの対処になる反面、早い。

スキルベース:繰り返し起こってくるようなことに関しては、行為が自動化され、無意識のうちに対処される。いわゆる脊髄反射というもの。

初心者は知識ベースでの対処から始まり、だんだん慣れるに従ってルールベース、スキルベースでの対処が出来るようになってくる。一方でベテランはスキルベースの対処が増えるため、「うっかりミス」というものが生じうる。