その勉強に意味はあるのか

若い頃はよく勉強した。

早く上から認められたい。同級生に差を見せつけたい。周囲から「すごい奴」とはやしたてられたい。

勉強は患者さんのため?正しい治療のために知識をつける?そんなことはどうだっていい。知識は力だ。力さえあれば、発言力が強くなる。周りだって、自分の言うことを聞くしかない。

研修医になったばかり、知識も手技もダメな人間が、ようやく少しだけ病棟の仕事ができるようになってくる3年目。やっと自分の時間ができた。それでも、生活の場所は病院だけ。まだまだ上司がいないと自分では何もできず、なによりも、周囲の「尊敬」ってやつが一向に自分のところにこないのが気に食わない。その患者のCV、入れたの俺だぞ。

モチベーションというのは不思議なもので、目的が具体的なほど、動機が不純なほど人は力が発揮できる。誰かを見下してやりたい、怖い上級生を悪し様に罵ってやりたい。こういった動機は本当に強い。患者さんが早くよくなるため、自分が腕を磨いて、地域に少しでも貢献したい。こんなヌルい動機で勉強が続けられるやつ、本当にいるのか?

で、3年目。小さな病院だったので、手に入る論文雑誌など英文ばかり。NEJMは結構簡単な英語が多くて、画像も多くて読みやすい。Lancet?やたらとフォントが小さくて気取った文章ばかりだけど、なんか権威があるらしい。こんな程度の知識しかなかったけれど、とにかく目に付く論文を、飽きもせずに読んでいた気がする。

知識を集積するのは切手の収集などに似ていて、珍しい話題の論文、大規模スタディなどはコピーして保存する。ノートパソコンなんて持っていなかった。コピーの山は、山根一真流の袋ファイルに入れて保管する。袋が増えると、自分の知識の量を眼で確認できて、うれしくなる。ポジティブフィードバックがかかって論文を読む量は増え、袋はどんどん数が増す。今でも部屋の壁1面は、全部袋ファイルで埋め尽くされている(もはやただのゴミの山なのだが、もったいなくて処分できない)。

これだけ勉強したのだから、自分はきっとどこの病院に行っても大丈夫。

民間病院から大学病院に移るとき、自分の背中を押してくれたのは壁一面の論文の山だった。で、その自分の空虚な自信を裏切ってくれたのもまた、こいつら袋の山だった。

目的を伴わない、あるいは体験を伴わない知識というのは、現実に直面するとクソの役にも立たない。論文のコピーというのは紙だけに、文字通りトイレットペーパーにもなりはしない。

本当に当たり前のことなのだが、勉強が楽しい(たぶん、本当は楽しくなかった)時にはこんなことにも気がつかなかった。

目的の無い、単なる知識のための知識を溜め込んだ頭というのは、ちょうど初期の「Yahoo!」のような、知識のポータルサイトと化す。誰に何を聞かれても大丈夫。「その領域には、こんな論文があってね…」などと、ありがたいものでも取り出すかのように、袋からコピーの束を出せば、他人から尊敬される。

インターネットがまだ今ほど発達していなかった頃、知識のある場所を知っているということは、知識の活用のしかたを知っているのと同じぐらい大事なことだった。例えば肺炎の治療を調べようと思った場合、今ならgoogleでもPUBMEDでも、適当に検索すればいくらでもデータが出てくる。昔は、「肺炎の治療」のいい論文はLancetの99年8月号に出ている、ということを知っていることに、大きな意味があった。

自分の研鑚を積んでいく上で、知識に走るのか、手技に走るのか、この両者は昔は対等な立場だった。

知識というのは、知識それ自体、あるいは知識の活用のしかたには意味があっても、知識を知っている人には何の価値もないのだが、情報の流れが現在ほど早くなかった頃は、「知識を知っている人」にもそれなりの存在価値があった。というか、当時は神に思えたスタッフは、本当は「知識の使い方を知っている人」だったのだが、当時もっとばかだった頃の自分は、それが「単に知識を持っているだけの人」との区別がつかなかった。

現場で役に立つのは、あくまでも「この治療、やったことがあるよ」とか、「このレジメンでケモすると、大体5日目あたりが怖いよね…」とか、そういった体験談。

自分が施設を替わったときというのは、ちょうどPDFファイルの流通が一般的になり始めた頃。論文は、図書室でコピーするものではなく、ダウンロードして印刷するもの、さらにはハードディスクに溜め込んでおいて、必要なときには画面で読むものへと変貌する真っ只中だった。

本物のインターネット時代になり、論文というものは、他人からもらうのではなく自分で検索するものへと変わった。人間の頭なんかより、googleのほうがよっぽど確かで、UpToDateな情報を提供してくれる。知識のある場所を知っていることには何の意味もなくなり、気が付いたら自分の費やした時間は、単なる無駄な時間と化していた。おかげで、カテの操作やワイヤーワーク、今でも同級生に追いつけない。

前の病院からの引越しのとき、自分を新しい病院でのヒーローにしてくれるはずだった論文の山はゴミの山になった。この4年間、その袋から何かを取り出したという記憶は全く無い。

勉強をしたいと思ったら、まずはその知識を得る目的はなんなのか、よく考えてみることだ。特にその動機の中に変な競争意識が入っているとき、無駄な時間を使ってしまっている可能性がある。

「プロレスはスポーツ競技というよりはサーカスに近いんだ。対決じゃなくて協力するものだから、相手より優位に立つ必要が無いんだよ。ステロイドなんか使わなくたって何も問題は無いんだ。」

ドーピングしたってしょうがない。知識というのは、一人でコソコソ得るものではなく、皆で協力し合ったり、あるいはみんなに公表して共有して生きた知識に育て上げるものだ。

つまらない功名心、競争意識から生じる勉強の動機というものからは、本当につまらない知識しか得られない。