知識の次に来るものは

知識の集まるところには、お金が集まる。

毛唐の人たちは100年以上前からこのことに気がついていて、学会を作り、LancetやNEJMを創刊してきた。学会費や雑誌の収入だけじゃない。知識の流れを握るということは、すなわち力の流れを握るということだ。日本がどんなにいい薬を作ろうと、西洋のジャーナルが取り上げなければ、日本人だってその薬を使わない。

ハンプ(ANP)はそうして潰された。いい薬なのに、パテントが日本にあったから、西洋のジャーナルには論文が載らない。その間、向こうの人たちは必死にBNPの合成にいそしみ、製品化と同時にNEJMをはじめとする論文雑誌が、いっせいにBNPの優秀性を論じたペーパーを載せた。作用機序は大体同じなのに、その日以降、ANPとBNPの明暗ははっきり分かれた。

ANPは、極東の田舎の無い薬。エビデンスは、そのへんの薬草ぐらい?
BNP心不全の特効薬。NEJMのお墨付き。
知識の流れを握るというのは、こういうことだ。

知識の集まるところにはお金と力が集まる。お金と力とは誰もが欲しいので、そこには競争が生じる。

NEJMとLancet以降の新参者は、少しでも多くパイの分け前に預かろうと、自分達の雑誌の購読料を安くする。安い雑誌は多くの人が読む。多くの人が読む雑誌には、優秀な論文が集まるようになる。

競争が始まって100年も過ぎると、それぞれの論文雑誌の立ち位置も決まってくる。大手ゼネコンの談合のような、見かけだけの競争社会に割って入るには、もっと極端な戦略を取らなくてはならない。オープンジャーナルの戦略を取る雑誌が出てくる。

その雑誌に載った論文は、全ての内容が無料でネットで閲覧できる。もはや雑誌を買う必要すらない。無謀な戦略だが、勝算はある。誰もが読める論文は、多く引用される。インターネット時代、ネットで全テキストが閲覧できれば、論文の引用される確率は飛躍的に上がる。引用される論文の多い雑誌には、いい論文が集まる。雑誌のインパクトファクターは上がり、その雑誌に広告を載せる業者は増えてくる。かくして出版社はより多くのお金を儲ける。

オープンジャーナル思想は結構上手くいくようで、伝統的な欧米の論文雑誌の中にも、全文の閲覧が可能なものが増えてきた。伝統的な雑誌社は、本来の印刷物を販売する経済モデルから変化し、格付け会社ムーディーズのような、論文の格付け機関として生き残りをはかっているようにも見える。

オープンジャーナルが増えてくると、論文を探す手間は大幅に減る。もはや論文雑誌を毎月頭から読む必要は全く無い時代。日々の症例や、問題が生じたときにネットを検索すれば、たちどころに必要な情報が手に入る。まさに夢の時代。

ほんの少し前まで、患者さんについての論文を集めるには人海戦術しかなかった。例えば肺炎球菌性肺炎の症例について、最近の文献を調べようと思ったら、まずは10人ぐらい部活の下級生に声をかける。

インターネットのない時代、文献を調べるには「IndexMedics」という雑誌を漁るしかなかった。これには、肺炎なら肺炎に関して、その月に出された論文の雑誌名とページが全部書いてあるだけ。過去3年分の文献を調べるには、「IndexMedix」を36冊読む。

このあと、雑誌名とページのリストを下級生に割り振り、全て調べてコピーさせる。無いものも多いので、それは製薬メーカーに頼む。この間約5日。今ならMedLineで3秒ぐらいか。

知識自体を持っていること、知識のある場所を知っていることには、昔は非常な価値があった。検索エンジンの進歩、さらにはオープンジャーナル化の流れに伴い、知識の価値はどんどん低下し、欲しいときに必要な知識がそこにあるのが当たり前になった。

知識の流通スピードが増すと、新しい知識は発表された瞬間に既知のものになる。もはや、その知識の発表者が誰であったのかなど、誰も気にしない。

ネットでは、ソフトは「落ちている」、あるいは「落としてくる」と表現される。

本当はただで落ちているわけが無く、誰かがそれを作ってくれたのだが、いまどきそんなことを気にしたり、製作者を調べて感謝するやつなどいないに等しい。

ソフトは使えればいいし、データはそこだけ引用できれば十分。その制作にどれだけの苦労があり、そこにどんなドラマがあったのかなど、誰も興味を持たない。

ソフトの製作者、論文の執筆者はたまったものではない。だから権利の保護に走る。著作権。発明の権利。外野から見るとなんであんなに一生懸命なのか理解に苦しむ。でも、実際に物を作る苦労は、作った人本人以外には、絶対に共有できない。

知識が自由に流通する中で、次に来るのは何だろうか。

まずは、その日に出た論文を和訳してリスト化したり、あるいはその論文同士の「価値」を比較してくれる、バーチャル雑誌の時代が来る。オープンジャーナルも増えているので、「洋物の雑誌の翻訳を読ませてくれる」だけでも、十分に人は集まると思う。

これをやられると、出版者のほうにはもはや何のお金も回らなくなる。格づけには何の元手もいらない。設備投資ゼロなら、十分にペイするし、リスクも無いに等しい。権利の問題等、絶対に揉めるだろうけれど、いつかやる会社が出てくるだろう。

知識それ自体の価値が地に落ちたあと、次に来るのは、コミュニケーションの価値だ。

論文を書く人、あるいはフリーのソフトウェアを作る人にとっての対価というものは、周囲からの勝算と尊敬だ。今、もしくは今後、同じ苦労の「結果」対する対価が下がっていくならば、おそらくはその苦労の「過程」に対しての対価を要求するようになるだろう。

具体例としては、有名な blogである「なんでもつくるよ」などは、作品を製作する過程を全て公開して、その過程から生じたコミュニケーションの力を上手く使っているように見える。製作者の方が、あの鋼鉄のボトムズの完成品をどこかでいきなり公開しても、ここまで盛り上がっただろうか?

最後にお金を取れる部分は、現実の出会いの機会と、その時間に対する対価だけになるだろう。

何か学びたいことがあって、勉強だけではどうしても分からない部分、その人と実際に会って、一緒にやらないと伝わらないノウハウ、弟子となって一緒に仕事をしてでも教わりたい考え方とか、そういったもの。

自分の持っているものの中で、そうしたリアルな出会いを通じて伝えるに値する大事なものがあるのか。今はまだ、全く無い。ネットでの無料配布で十分。せめて一生のうち一つぐらいは作れたらと思い、日々勉強している。

ちなみに循環器内科に入局すると、もれなくカテのノウハウ、ついてきます。とても役に立ちます。本当ですってば。

2005/6/23追記。
My Life Between Silicon Valley and Japanで、同じようなテーマが論じられていた。

「飯を食うための仕事」という部分では純粋に何が大切なの? という話になるとやはり「対人能力」なんだろうな。そこをきちんと意識しておかないと、つぶしが利かないんじゃないかなぁ。そんなことが言いたかったのである。ここでいう「対人能力」は前エントリーで述べた「村の中での対人能力」ではない。組織の外に向かって開かれた「対人能力」のことだ。
医者は基本的には手仕事なので、最後までつぶしの効く能力というのは残る気がする。この人じゃないと任せられない手術の腕とか、急変時の対処能力とかいったもの。

ならば、ここで論じられている「対人能力」に相当するものは何にあたるのだろう。逆に、IT業界での「医者の腕」に相当するものは?