知識の渋滞を抜け出すために

##知識習得の高速道路化という現象
インターネットの普及や、安価に使える論文データベースの普及に伴い、他の人の知識の成果物の参照が、極めて容易になった。

他の人の技術を自分の参考にするのが容易な業界、とくにプログラマーの業界では、このインターネットの普及により、**学習の高速道路化**という現象がおきている。

>インターネットを経由すれば、他人のコードを簡単に読むことができます。参考にすべきコードはいくらでもあり、その開発者が海の向こうにいようと世界の裏側にいようとわずか数秒でアクセスすることができます。
>最高レベルのコードを参考にコードを書けば、自然と最高レベルに近づくのは当然のこと。情報へのアクセスに実質的な限界がないネットの世界では、よりクオリティの高いものがすぐ近くに存在するかもしれないという可能性が常に存在し、それがより高いクオリティを追及するモチベーションとなり得ます。
>一方、ネットが普及する以前の環境においては、他人のソースコードを参照する機会などはなかなか与えられず、与えられたとしてもそれがどの程度のレベルなのかどうかを知る術もありません。他を比較対照とするのではなく、過去の自分を比較対照とし成長をしていかなければなりません。その両者の成長スピードに圧倒的な差が生まれるのは当然のことかもしれません。
>梅田望夫[ネット時代のエンジニアの価値](http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001893.html)

医師の業界というのは、「**手が動かないと仕事にならない**」という部分では、まだまだ高速道路化の恩恵というのは十分には発揮されていない。それでも、知識の習得という部分では、高速道路がだいぶ整備されてきている。大学などでは、医局の机に居ながらにして、世界中のほとんどの雑誌にアクセスできる。図書館を踏み台にしていけば、その雑誌の全テキストを参照することも容易。以前では考えられないぐらいに、必要な情報へのアクセスは簡単になってきている。

##高速道路の先の渋滞
将棋の羽生名人が、以前「**インターネットの普及によって、将棋の世界の何がいちばん変わったか**」というインタビューに答え、こう答えたという。

>「将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということだと思います。
>でも、その高速道路を走り切ったところで大渋滞が起きています」

現在は、将棋が強くなるための情報というのはネット上にあふれており、その気になれば、誰でもプロ将棋士の入門者ぐらい(アマチュア最強クラス)にはなれるのだとか。以前なら、プロになるまでの道は徒歩で歩いていくしかなかったものが、今ではその入り口までは高速道路がひかれている状態。ところが、そこから次の一歩を踏み出すためにはどうすればいいのか、そこの部分の正解が分からず、大渋滞になっているのだという。

高速道路の出口から抜け出るのは難しい。後ろからも高速道路を駆け抜けてくる連中が皆どんどん追いついてくるから、自然と大渋滞が起きる。最も効率のよい勉強の仕方、しかも同質の勉強の仕方で、皆が高速道路をひた走ってくる。結果として、その一群は、確かに一つ前の世代の並のプロは追い抜いてしまう勢いなのだが、そうやって皆で到達したところ、一定のレベルのところで大渋滞が起きている。

##高速道路がひかれる前の病院
ほんの10年程前まで、新しい知識というものは、上級生から学ぶしかなかった。

まだインターネットもろくに整備されていない時代。文献検索などもちろん出来るわけもなく、なにか調べ物をしようと思ったら、図書館に出向いて医学中央雑誌のデータベースをあたるしかなかった。

今度やる手術を教科書で調べておこうなどと思っても、まずAmazonがない。医学書を売っているような大きな本屋は当時近くになく、本を買おうと思ったら、医学書の行商の本屋さんに連絡を取って、本を持ってきてもらう。

どんな本がいい内容なのか、世間で評判のいい参考書は何なのか。ネットの掲示板がない時代は、すべて先輩からの口伝で教科書を選ぶしかなかった。今でこそ売れている「ワシントンマニュアル」なども、当時はまだまだ世間ではマイナーな教科書だった。

医者になるにはどんな情報が必要で、それをどうやって調べればいいのか。当時の答えは、「とにかく上級生の知識と業とを盗んで、自分のものにする」のみ。日本の研修医の誰もがそれをやっていた。

##臨床研修の高速道路化と知識習得の渋滞
今は違う。インターネットを見れば、何が一番定評のある教科書なのか、すぐ分かる。教科書を買うまでもなく、今ではネット上にいろいろな教科書が無料で公開されている。自分が[こんなもの](http://medtoolz.xrea.jp/)をはじめた頃は、まだそんなに多くの情報はなかったけれど、いまではずっと優れた情報が、いくらでも簡単に手に入る。

手技を身につける必要はあるけれど、知識の習得のスピードについては、現在の研修医は、10年前の我々の世代に比べて格段に速くなれる条件がそろっている。

一方で、「**最近の研修医は覇気がない**」という声は、相変わらず聞かれる。自分もいつもそう言っている。学生の頃からインターネットにアクセスできるのが当たり前の世代。知識の習得スピードは、自分達の頃とは比較にならないぐらい、すばやい人たち。どんな化け物がる来るのだろうと、数年前までは戦々恐々としていたが、もう慣れた。

何年経っても、どんな便利なツールが出現しても、新人はやはり新人のまま。みんな新人研修医のレベルで足踏みして、そこを飛び出して、中堅層に突っ込んでくる奴がなかなかいない。

高速道路の先の渋滞現象どころか、新人レベルから次の一歩を踏み出す部分で、すでに研修医に「渋滞」がおきている。

医者の仕事なんて、結局のところは手が動かないと話にならない。現在は、なまじ調べ物が簡単に出来るようになったものだから、「**先輩から盗む**」なんていう、面倒な技術は廃れてしまった。ところが、病院で実際に役に立つ知識を得るには、この技術こそが大事で、そのノウハウを失った研修医は入り口のところで足踏みをしてしまう。

この渋滞現象から抜け出すには、どうすればいいのだろうか。

>開発者の棋力がプロ並みだからといって、プロ並みの強さの将棋プログラムが作れるわけではない。その大きな理由は2つある。1つには、コンピュータ上のプログラムとして表現できる知識がそれほどリッチではないということである。もう1つの理由は、量が質に直接結びつくという性質である。
>重要なのは理由の一つ目である。この部分の理論的研究にブレイクスルーが出なければ、「高速道路を抜けたあとの渋滞」くらいのところまではいけるかもしれないが、将棋プログラムがトッププロと雌雄を決するほどの存在になることはできないのではないか。
>[My Life Between Silicon Valley and Japan](http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050727/p1)より引用

コンピュータプログラムの世界でも、同じようなことがおきている。医師が相手にしているのは、コンピュータープログラムではなく人間だ。初心者同然の人間を、プロに仕立て上げるノウハウについては、医療業界にはそこそこのノウハウがある。

##渋滞を抜け出す方法
高速道路を走ることを知っている新人は、言いかたを変えれば自分の足で歩くことを知らない。

ネットでクリック一つで情報を集めることは得意でも、一方で湿っぽい人間関係の中から、自分にとって有益な情報を取り出す知恵、他人の知識や技量を「**盗む**」やり方については、あまり経験がない。

渋滞を抜け出すには、高速道路を降りたらすぐに、自分の足で歩き出すしかない。自分の足で効率よく歩くための方法は、高速道路が引かれる前に、そこを歩いてきた人たちの知恵というものが参考になるかもしれない。

##知識習得の3段階