正直さと即興性

料理人や大工仕事、手術や心カテに至るまで、様々な職人仕事には、
「正直さ」に優れた人と、「即興性」に優れた人とが存在する。

##菓子職人の正直さ
たとえば、同じ料理人であっても、菓子職人の凄さと、出張料理人の凄さとでは
意味あいが異なるんじゃないかと思う。

[NHK の番組](http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/060124/index.html)に出ていた
菓子職人、杉野英実氏がフランスの菓子工房に弟子入りした際、
もっとも驚いたことが「当たり前のことしかしていなかったこと」だったという。

>素材を一つ一つ検品すること、お菓子の焼き時間を秒単位で守ること、
お菓子に染み込ませるお酒の量をグラム単位で守ること、
隠し味に使うショウガを2ミリに切りそろえること。言葉にすると、どれもあたり前のこと。
>しかし、毎日数百ものお菓子を作り続ける厨房で、ひとつも手を抜かずに完璧に貫けるかどうか。
>それが一番むずかしい。

レシピにしてもそんなに特別なものではなく、
材料にしても、無くなったら近くのスーパーマーケットに買いにいく。
そのかわり、全ての材料をチェックして、痛んでいるものは絶対に使わない。

工程を遵守すること。基本を忠実に守ること。
そうした正直さの積み重ねが、その菓子工房を特別な存在にしている秘密だった。

##出張料理人は嘘をつく
菓子職人に求められる技能が「正直さ」なら、
出張料理人に求められる技能というのは、「嘘をつく能力」だ。

もちろん、材料だって厳選していくだろうし、
料理の手順にしても事前の計画は欠かせないにせよ、
出張料理人の人がいくのは他人の家。

8人のパーティーが予定のところが10人ぐらいに増えるのは当たり前だし、
そんなときに8人分出して「あとは知りません」というわけにはいかない。

8人分の材料を10人分に伸ばしてみたり、レシピを変えて、別の料理を10人分用意してみたり。

パーティーの流れによっては、料理を出す順番とか、種類を変える必要だって
あるかもしれない。それはもちろん契約の範囲外だろうけれど、
その場での変更に応じられなかった出張料理人には、次回の「お呼び」はかからない。

##即興性という能力
「生きる、死ぬ」の現場をくぐる職場にいるベテランは、
修羅場を乗り越えるのが本当に上手だ。

一歩間違えれば、目の前で人が死ぬ。下っ端がみんなビビって手を出せないような、
そんな危険な状況でも、即興性に秀でた人は、
まるでプレッシャーなんて感じないんじゃないかというぐらいに淡々と仕事をこなす。

>「この人には、恐れという感情は無いんだろうか?」

部長の手技を見ながら、よくそんなことを考えた。

戦場では、殺さなきゃ殺される。実際の戦争になったら誰でも自分がかわいいと思うけれど、
第2次世界大戦のころは、半分近くの兵隊が引き金を引けなかったのだそうだ。

銃弾が飛び交っているように見える戦場でも、実際には撃つふりだけしてみたり、
あさっての方向を狙ってみたり。

戦争が終わってからのアンケートでは、
「撃たなきゃ死ぬ」という状況ですら、多くの兵隊が撃っていなかった。

有効だったのは、「自分にウソをつく」訓練だった。

人の顔が書いてある的を狙ってみたり、あたると血しぶきの飛ぶ的を作ったり。

実際の戦場と、訓練との差異を少なくすることで、「これは訓練の延長だ」という
ウソを自分に信じさせ、兵隊は「撃てる」ようになったのだという。

鬼手仏心は医者の理想なのだけれど、鬼にならなくてはならないときに
鬼になれない人は、実際多い。

>「鬼の手」を持てない人は、人の命を軽く考えているのか?

事実は逆だ。

考えるだけなら、今のQOML とかいってるヘタレの方が、
ベテランの先生がたの何倍も、生命を大切に考えている。
ところが、患者さんの生命だけでなく、自分達の生命のことまで考えちゃうから、
若手はみんな厳しい職場からいなくなる。

##鉄火場に弱い「正直な職人」
仕事の再現性というのは、同じやりかたを「馬鹿正直」に繰り返す能力だ。

マニュアルとか、レシピとかいった、人の動作を規定するものが
ちゃんと出来ている仕事であれば、優れた職人は同じものを完璧に再現できる。

医療ミスの多くは「マニュアルを破った」ことから生じている。

馬鹿正直にマニュアルを遵守していれば防げた事故というのは
たしかにあって、そういう意味では、
現場には「正直な職人気質」を持った医師が、まだまだ足りないのかもしれない。

ところが、こうした正直な医師というのは、患者さんの急変に弱い。

急変の現場というのは、「出張料理人が8人分の材料を持っていったとき、
そこには10人の客がいた…」という状況なので、求められるのは即興的な技能。