世代間の抗争

刀鍛冶は一生かけて日本刀を作りつづける。目標にするのは鎌倉時代の名匠「正宗」、新撰組が愛用したことで有名な「虎徹」。伝説の域に達した達人の業物だ。

どんなに努力しても、達人の日本刀にはなかなか及ばない。

刀鍛冶は毎日炎と向かい合いながら鎚を振るい、精進する。年季を重ねるごとに腕は上がる。しかし目利きの評価は厳しい。「なかなかいい業物だが、正宗の本物に比べればまだまだ…」。

炎は刀鍛冶の目を焼き、やがてほとんど盲た頃、やっと鍛冶の満足のいく一振りの刀が鍛えられる。
「我、正宗、虎徹の域に達せり…」。刀匠は自分の記録を「秘伝」として後世に残し、出来上がった刀の評価を楽しみにしながら満足げに亡くなっていく。

こうして出来上がった「究極の一振り」の刀は結構多いらしい。たいていはどうしようもない代物で、「秘伝書」にもたいした内容は書かれていないのだそうだ。

刀匠の世界は若手に厳しい。どこまで精進したところで、相手は伝説の中。「正宗」など現物すら残っていない。現存している業物の日本刀にしても、貴重すぎて切れ味の勝負などには使えるわけも無い。

刀匠の作ったものを評価するのは「目利き」の仕事だが、だいたいこうした人たちは、古い製品を高く売りつけることで生計を立てている。「伝説」は「伝説」のままにしたほうが、商品は高く売れる。公平な評価など期待できない。

代わりに評価されるのは、とにかく「古い」ということだ。いつまでたっても最高なのは古典。新人の作品は年季を積むまで評価されることは無く、一方で年寄りの作品は、たいしたことがなくてもやたらと珍重されたりする。

世代間の争いのない業界は進歩が止まる。

日本刀が「実用品」として改良が続けられたのは明治初期まで。鎧の進歩に対抗するために「正宗」が作られ、武士の戦術が斬撃中心から突き中心のスタイルに変化したのに合わせ、「虎徹」が評価されるようになった。

日本刀の進歩はここで止まる。明治以後は武器としての実用性を失い、もはや戦いの趨勢を決めるのは刀の性能ではなくなった。これ以後の日本刀は、装飾品としての価値が珍重されるようになる。

刀鍛冶のその後は2分される。刀鍛冶としての存在意義を「武器を作る」ことにおいていた職人は、刀を作ることを止めて鉄砲を作りはじめた。一方、刀鍛冶の存在意義を「刀を作る」ことにおいていた職人は、迷走を始める。

「いい刀」を作りたいと思っても、刀で戦わなくなった時代のいい刀とは何なのか。目標を失った老人は権威に走る。刀匠が刀を打つ時のスタイルはだんだんと時代がかった華美なものになり、出来上がった刀の価値は「切れ味」におかれなくなる。「精神性」「刀にまつわる伝説」といったものが強調されるようになる。

「やはり焼き入れには○○山の雪解け水を使わないと駄目」
「地金は奈良時代の古釘を使う。粘りがぜんぜん違う」
馬鹿な話だ。目標を誤っている。

どんな分野であっても、「昔はよかった」「あの時代の先生はすばらしかった」などという古典賛美の声が聞かれるようになったら要注意だ。その業界は、進化の袋小路に入り込んでいるかもしれない。

我々の業界でもこうした分野はある。

「昔の医師はどんな疾患でも診察した」
「現代医学は患者に冷たい」
「臓器を診るが患者を診ない」
こうした批判に迎合する形で商売している連中は、労せずして名医になれる。簡単なことだ。善人面してダラダラと外来をやっていれば、長くやっているだけで周囲が勝手に評価してくれる。患者がよくならなければ、「冷たい」大病院へ放り投げればそのまま(どちらが冷たいんだ)。こっちが必死の思いで何とかして、その人の以後の外来フォローを頼もうとすれば、面倒なので拒否。

医師の本来の目的は、「病気が良くなること」だったはずだ。

こうした「古きよき時代の医師」を再生しようとしている人たちは、目的よりもスタイルを追ってしまっている。スタイルを追う医療も、商売として考えるなら「あり」だ。でも自分はそうした方向には追随したくない。

実用性を追求する世界では、世代間の抗争が当たり前のように生じる。現場のニーズはどんどん変わる。変化に追随できない奴は置いていかれる。経験が豊富だから、単に年をとっているからだけでは下から信頼されないし、最悪追い越される。

治療の現場も刻一刻と変化している。今までと同じことをやっていたのでは、もはや増加した患者数をさばき切れない。外来患者数は増加の一途、待ち時間に対するクレーム件数もそれ以上に増えている。現代医療の「実用性」とはスピードだ。

より早い受付、より早い検査、より早い診断と治療。理学所見を取って確定診断へと至る思考過程は、従来どおりやっていたのではベテランには絶対に勝てない。急変を乗り切ってきた数、乏しい検査機材で診断をつけてきた数、実戦経験が違いすぎる。

世代間の闘争は、必然的に医師の思考過程に変化を要求する。ベテランの思考能力を追い越すには、若手側が方法論を変化させるしかない。刀の切れ味が戦を左右することがなくなったとき、この変化をチャンスと見た若手の刀鍛冶が刀を捨て、鉄砲製作に走ったように。

具体的に「どう」変化すればいいのか、自分にはまだ分からない。まだまだベテラン勢から学ばなくてはいけないことは山ほどあるのに、自分も気がついたら「ベテラン」と呼ばれる年齢に近づいている。彼我の距離は縮まらない。

自分が追っているベテランの背中というのが、果たして本当に「実用性」のメタファーなのか、あるいは気がつかないうちに「スタイル」を選択してしまっているのか、それすらもよく分からない。

今はっきりしているのは、このまま勉強を続けても、どう逆立ちしてもベテラン勢の経験の厚みに追いつくことは出来ないということだけ。

10年経っても目標は見えない。まだ目の潰れた刀匠で終わりたくは無い。

追記。時代の要求するのはスピード…ではなく「入院を断らない」「このまま一生病院において欲しい」だったりすることがますます増えていたりするのだが、ここでは無視する。

この問題は本当に根深く、もはや現場の説得の努力は限界を超えてしまっているのだが。だれか何とかしてくれないだろうか。